例によって、麻鳥は深夜まで読書していた。しかし宋活字の医学書が、その夜は、ひどく錯雑と見えて、少しも頭に入らなかった。 指を折って数えても、それから七日とも経たない内の出来事だった。 二、三日、明日香の姿が見えないがと思って、何気なく、外出の帰りに、良全の埴生
の小屋をのぞいて見た、すると、そこには、見も知らないせむしの子と、足なえの男が、鍋なべ
や水桶みずおけ だけを持ち込んで住んでいた。
「おや?」 とあきれて、訊たず
ねてみると、足なえの男が、うらやましそうにこう話すのだった。 「あ、ここにいた良全さんかい。良全さんは、さきおととい、十禅寺町へ越して行ったよ。こんどは、こんな埴生はにゅう
小屋ごや でない上等な家へね。・・・・なんでも、あの娘っ子が、白拍子町のいいとこへもらわれて行ったそのお蔭だそうだ。おらがとこの、せむしの餓鬼がき
じゃあ、捨てても拾い手がありゃしない。おまえさん、お医者なら、なんと、このせむしが癒なお
るまいか」 麻鳥は、その晩も、夜業の机には向かったが、ほとんど、何を読んでいるのか、自分でも分からなかった。 朽縄くちなわ
の顔や、町風の年増女の姿が、宋版の文字よりも濃く、書物の上に見えたりする。 「良全夫婦も、ひと言ぐらいは、自分へあいさつして行きそうなものだ」 凡人の不満である。気が滅入めい
ってならなかった。けれど、牛飼町界隈かいわい
の交わりでは、それもそうとがむべきほどなことではない。朝にいた者が、夕には去り、前の夜、灯の見えた小屋が、翌日は洞穴ほらあな
のように人もいないというような例は、一年中のことだからである。 「わしの子ではない、親の子だ。明日香ちゃんの体を、どうしようもありはしない。・・・・なのに、このごろ、わしは一体、あの娘に、何を望み、行く末、どうしようという気を起こしていたのであろう。・・・・?」 自分で自分に問うてみる 不純な気持がなかったとは言い切れない。 机のまわり、書物の上など、灯に寄る夜の虫が、好んで灯に身を焼いたり、物の下になって死ぬ。よく見ると、か弱さ、美しさの、明日香に似ている虫もいるし、朽縄のような恐こわ
らしい虫もいる。 「所詮しょせん
、自分に確かに出来得ることは、貧しい病人へせめて薬を与えるぐらいのものだ。── 明日香を幸福に。── 飛んでもない。第一、人を救うなどという考え方は大それたことだ。知らぬ間に自分も思い上がっていた。そんな神異しんい
の力がわしにあるわけがない。・・・・まだまだ、人の病気すら、ろくに癒なお
せもしないくせに」 麻鳥は、裏へ出て、井戸の水を浴びはじめた。 これはときどき彼のやる水浴と眠気ざましを兼ねた手段なので、近所の者も、その水音には馴な
れている。── しかし、それとは関係なく、何か、六条一帯が、騒々しい。 体をふき、木綿の衫さん
を着込んでいると、牛飼町の屋根の上に、幾つも、人影が見え始め、屋根と屋根とで、大声を交わし出した。 「どこだろう。あの火の手は」 「堀川辺だ。堀川の上だよ」 「じゃあ、白拍子町か、公卿屋敷か」 麻鳥も、空を見た。 なるほど、一方の夜空が赤い。白拍子町と聞くと、彼も、人の足音につられて、駆け出して行きたいような衝動に駆られた。 この町の人びとは、飢えて気力もないくせに、空に、火の粉を仰ぐと興奮する。そして、片輪者までが、わらわら火を見て駆けて行く。 彼らは火事場の付近から、何かを持って、夜の明け方にはゾロゾロ帰って来るのだった。かなしい習性だと麻鳥はいつも思う。──
白拍子町と聞くのは気がかりであったが、それを見るのがいやだった。麻鳥は戸をたてて寝てしまった。ときどき、軒ばの青柿あおがき
の実が、音を立てて、破や れ廂びさし
へ落ちて来た。 |