〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/23 (木) に ら め っ こ (四)

例によって、麻鳥は深夜まで読書していた。しかし宋活字の医学書が、その夜は、ひどく錯雑と見えて、少しも頭に入らなかった。
指を折って数えても、それから七日とも経たない内の出来事だった。
二、三日、明日香の姿が見えないがと思って、何気なく、外出の帰りに、良全の埴生はにゅう の小屋をのぞいて見た、すると、そこには、見も知らないせむしの子と、足なえの男が、なべ水桶みずおけ だけを持ち込んで住んでいた。 「おや?」 とあきれて、たず ねてみると、足なえの男が、うらやましそうにこう話すのだった。
「あ、ここにいた良全さんかい。良全さんは、さきおととい、十禅寺町へ越して行ったよ。こんどは、こんな埴生はにゅう 小屋ごや でない上等な家へね。・・・・なんでも、あの娘っ子が、白拍子町のいいとこへもらわれて行ったそのお蔭だそうだ。おらがとこの、せむしの餓鬼がき じゃあ、捨てても拾い手がありゃしない。おまえさん、お医者なら、なんと、このせむしがなお るまいか」
麻鳥は、その晩も、夜業の机には向かったが、ほとんど、何を読んでいるのか、自分でも分からなかった。
朽縄くちなわ の顔や、町風の年増女の姿が、宋版の文字よりも濃く、書物の上に見えたりする。
「良全夫婦も、ひと言ぐらいは、自分へあいさつして行きそうなものだ」
凡人の不満である。気が滅入めい ってならなかった。けれど、牛飼町界隈かいわい の交わりでは、それもそうとがむべきほどなことではない。朝にいた者が、夕には去り、前の夜、灯の見えた小屋が、翌日は洞穴ほらあな のように人もいないというような例は、一年中のことだからである。
「わしの子ではない、親の子だ。明日香ちゃんの体を、どうしようもありはしない。・・・・なのに、このごろ、わしは一体、あの娘に、何を望み、行く末、どうしようという気を起こしていたのであろう。・・・・?」
自分で自分に問うてみる
不純な気持がなかったとは言い切れない。
机のまわり、書物の上など、灯に寄る夜の虫が、好んで灯に身を焼いたり、物の下になって死ぬ。よく見ると、か弱さ、美しさの、明日香に似ている虫もいるし、朽縄のようなこわ らしい虫もいる。
所詮しょせん 、自分に確かに出来得ることは、貧しい病人へせめて薬を与えるぐらいのものだ。── 明日香を幸福に。── 飛んでもない。第一、人を救うなどという考え方は大それたことだ。知らぬ間に自分も思い上がっていた。そんな神異しんい の力がわしにあるわけがない。・・・・まだまだ、人の病気すら、ろくになお せもしないくせに」
麻鳥は、裏へ出て、井戸の水を浴びはじめた。
これはときどき彼のやる水浴と眠気ざましを兼ねた手段なので、近所の者も、その水音には れている。── しかし、それとは関係なく、何か、六条一帯が、騒々しい。
体をふき、木綿のさん を着込んでいると、牛飼町の屋根の上に、幾つも、人影が見え始め、屋根と屋根とで、大声を交わし出した。
「どこだろう。あの火の手は」
「堀川辺だ。堀川の上だよ」
「じゃあ、白拍子町か、公卿屋敷か」
麻鳥も、空を見た。
なるほど、一方の夜空が赤い。白拍子町と聞くと、彼も、人の足音につられて、駆け出して行きたいような衝動に駆られた。
この町の人びとは、飢えて気力もないくせに、空に、火の粉を仰ぐと興奮する。そして、片輪者までが、わらわら火を見て駆けて行く。
彼らは火事場の付近から、何かを持って、夜の明け方にはゾロゾロ帰って来るのだった。かなしい習性だと麻鳥はいつも思う。── 白拍子町と聞くのは気がかりであったが、それを見るのがいやだった。麻鳥は戸をたてて寝てしまった。ときどき、軒ばの青柿あおがき の実が、音を立てて、びさし へ落ちて来た。 

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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