〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/22 (水) に ら め っ こ (三)

家の内には、蚊遣かやり が煙っていた。夜風にあおられた小さな灯がトロトロと赤い明滅を立てている。麻鳥はいつもの夜学にかかるため、その灯を机のそばへ持って来た。そして医書をひもときかけた。
すると、家の裏で、水の音が聞こえ、何か竹竿が触れるような音もした。 「おや?」 と、麻鳥は身をのばして濡れ縁から外をのぞいた。木の枝へ物干し竿を渡し、それへ、洗濯物せんたくもの をかけようとして ── 背伸びしている少女の影がそこに見えた。
「明日香ちゃんじゃないか。暗いのに、洗い物なんかしないで、ここでお涼み」
「でも、今夜こうしておけば、明日、きれいなのが、着られるでしょう」
「あ。わしの汗臭いさん (単衣ひとえ ) を、洗っておいてくれたのかい」
「昼間、洗いかけたら、あの、お客さまが来てしまったでしょう。・・・・だから」
と、明日香は、もじもじしながら縁へ寄って来て、麻鳥のそばに腰かけた。そして、指の先を、自分の指で、何か、しきりに、いたわっていた。
「指へ、トゲでも刺さったの」
「え。竹の げが」
どれ。お見せ」
麻鳥は、彼女の手を握って、顔のそばへ持って行ったが ── 「ここでは、暗くて見えやしない。灯のそばへおいで」
と、上へあげた。
麻鳥は毛抜きを出して、彼女の指のトゲをとりにかかった。
眼を近づけて何度も何度も一つことを繰り返したがなかなか取れない。明日香は、彼の手に手を預けたまま、素直にしていた。痛みも忘れて、いつまでも、そうしていたいようであった。
「ああ、やっと取れた。痛かったろう。血が出て来たもの」
「いいえ、ちっとも」
「すぐ止まるからね」
いじらしさに、麻鳥は、明日香の指を自分の口で吸った。そして、いたわるように口の中の指をねぶ った。滲み出る指の血が彼の舌に淡い酸味を伝えてくる。── と麻鳥は無意識になお強く吸った。いつまでも離したくなかった。
「・・・・・・」
明日香は、なお、ますに任せて、眼をつむっていたが、ふと、指頭からつたわる感触に体じゅうを羞恥しゅうち の火にしてしまった。思わず引きかけた手に麻鳥の軽い抵抗を感じたとき、どうしたのか、彼女はしゅくしゅくとすすり泣きをし始めた。そして、麻鳥がいたわり寄せる手の中に嬰児のように抱えられると、なお嗚咽おえつ して、しゃくり上げた。
「何がそう悲しいのかい。え、明日香ちゃん。何が・・・・?」
「うれしいの。悲しくなんかないの。わtくし、うれしいだけ」
「じゃあ、泣かなくてもいいだろう」
「けれど。いまに、遊びに来られなくなるかと思って」
「なぜ。どうして」
「・・・・・」
明日香は答えなかった。
こう抱えていても、麻鳥にはみだ らな気持など露ほども起こらなかった。ただこの餓鬼町の中の白百合しらゆり が、なんに飢えているかを彼はよく知っている。愛情と知識である。まだ恋を自覚する年ごろの明日香ではない。彼女が甘えたいのは愛情であり、すがりたいのは天性が求めている知識に違いない。
「明日香ちゃん。この間、おまえに上げるといったのに、どうして、このかんざし を置いて帰ってしまったのか。今夜は、持ってお帰り・・・・遠慮しないで」
「いただいても、いいんですか」
「何かの時、物代ものしろ にして、今に、好きな着物でも買っておもらい」
「いや」 と、かぶりを振って、簪を胸に抱いた。そして初めて笑顔になった。
「一生、持ってるの。一生涯・・・・」
やがて、明日香は、それを持って、うれしそうに帰って行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next