〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/22 (水) に ら め っ こ (二)

留守の間に、口喧嘩くちげんか でもしたのだろうか。彼には、わけが分からない。
おそらく少女と少女との、ささいな感傷のもつれ合いに過ぎないのだろう。麻鳥が、笑いながら、蓬子の前へ戻った。
そのとき、気が付いたことなのである。半年余り見なかった間に、蓬子はもう女童めわらべ ではない。化粧の仕方といい、髪かたちといい、すでに雨情をふくむ妙齢の女性となっている。
十七といえば、急に、女の眼ざめが、こうも変わって来るのだろうか。
おやいや、常盤の再嫁に従って、蓬子の環境や役目も違って来たに相違ないから、自然の成長というものだろう。── それを認めなかったのは悪かった。麻鳥は、そんなふうに考えて、
「蓬さん。いまの娘が、何かあなたの気にさわることでもしたのですか」
と、言葉も少し改めて、 いてみた。
「いいえ、ちっとも・・・・」
蓬子は、そう言ったが、また、
「・・・・でわたくし、いまのお人を、初めは、おし かと思いましたわ。なぜといえば、わたくしがお訪ねして来たのに、ろくに答えもしてくれないんですもの」
「この牛飼町のほか、世間の人に触れるおりもないあわれな貧者の娘です。きっと、恥かしがったのでしょう」
「いいえ。ちがいます」
「じゃあ、何です」
「まるで、わたくしに、帰れよがしの眼差まなざ しでした。麻鳥さまは、今のひとを、やがて、妻になさるお気持ではないのですか」
「え・・・・?」
麻鳥は、びっくりした 。けれど、蓬子のひとみ は、もっと、一心なものをこめて、彼のその眼を、見つめてくる。
彼は耐え切れない眼を らした。そして、首の根から赤くなってしまった。二人の睨み合いが、自分を中にしての嫉妬しっと だと気が付いたからだ。けれど、また分からないものが胸につかえた。明日香のような年端としは のゆかに少女にも、そんな嫉妬があるものだろうか。また、この蓬子は、以前から、そんな対象として、自分に れ親しんでいたのだろうか。去年の秋ごろの、あんな無邪気な女童めわらべ に見えていた時から。
「・・・・今日は、お使いの途中ですか」
彼は、わざと、話をそらした。
「いいえ。麻鳥さまに、すこし相談したいと思って」
「はあ。そう・・・・」
麻鳥は、もじもじした。何か、息がはずんで、苦しくなる。
「ねえ、麻鳥さま。わたくし・・・・今日ばかりでなく、もうずっと、お暇を取って、町に住みたいと思うんですけれど、どうでしょう」
「常磐様のお側を離れるんですか」
「おさび しいお姿を残して、一条のお館を出るのも、何か辛いここちはしますけれど」
「義朝殿のお子たちがおひざにいたころから、お仕えして来た蓬さんではないか。── 今、あなたに去られたら、どんなに、おの御方おんかた は心細かろう」
「それも、ずいぶん考えたのですが」
「どうして、町へ住みたいなどと、急に思い出したですか」
「いつも、麻鳥さまが仰っしゃっていたではありませんか。── 栄花えいが権勢けんせい は、うわべだけの物でしかない。九重ここのえ の内に住む人びとと、貧しいちまたに生きている人びとを比べれば、かえって、ほんとの人情や、人間の美しさは、公卿の社会より、貧者の町の底にあると。・・・・それは、つくづく本当だと思いました」
「けれど、蓬さん。何も好んで、貧しい町人町へ、身を落として来ることもありますまい。── 貧しい人びとはまた、どうかして、少しでも、上の生活へ近づきたいとしているんですから」
「けれど、もう上流の人たちの生活が、ほとほといやになったんですもの。麻鳥さまが、伶人れいじん の家柄も捨てて、牛飼町に住んでいるのは、この気持かと、思い当たったら、矢もたてもなく、ここが恋しくなりましたの」
「いやいや、優雅みやび な館に、いちどお仕えした女子などが、長く絶え得る所ではありません。多年お仕えして来た常磐様のお心にも、よく伺ってごらんなさい」
「常磐様に伺えば、お止めになるにきまっています。ほんとのことを言えば、わたくしの心は、常盤様にはもう離れてしまいました。自分のおあるじ ですけれど、清盛様とは、ああいうわけでしたのに、また、他家の後妻にとつ がれるなんて、いくらお美しいにせよ、浅ましゅうて・・・・」
たしかに、蓬子の成長である。
女性の持つ女性の批判を抱き始めている。それが正しいか否かは別として、常盤という主に対して、懐疑的になってきたのは事実であろう。そして自分の女としての生き方にも、考えを深めて来たものにちがいない。
けれど、その女の生きる将来を、麻鳥へ結びつけたいとしているらしい蓬子の口吻くちうら を知ると、彼は当惑のほかなかった。
なんと、なだめて帰そうか、思い止まらせようか、そればかりが屈託になる、心が重くなる。
しかし、彼女は、麻鳥とただ向かい合っているだけで楽しいらしい。時のたつのも忘れ顔に話しこむ。そして日が暮れかかると食事を手伝い、麻鳥とともに、貧しい食物を、さも楽しそうに食べた。
「もう帰らなければいけないでしょう」
「ええ。今日は帰ります。けれど、お暇が出たら、ここへ来てもいいでしょう。ねえ、麻鳥さま。来てはいけません?」
「そうそう、今度、文覚さんが都へ見えたら、文覚さんにでもよく相談してごらんなさい。それまでは、軽はずみをなさらないで」
そんな一時のがれをいいながら、彼は彼女を、六角のつじ の辺りまで送ってやり、そして、急いで帰って来た。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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