〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/22 (水) に ら め っ こ (一)

この夏は暑い、幸いに、まだ悪疫流行のきざ しは見えない。
けれど、気温は低く、都の中の稲田や麦の育ちは目立って悪かった。悪病のおそ れがないと思えば、冬には飢饉いきん の心配かと、人がつぶやく。
麻鳥は、今日も神楽ヶ岡から帰って来た。留守には、明日香が、いつも掃除などして待っていてくれるのだった。── で、その日も、
「明日香ちゃん、いま、帰ったよ」
と、何気なくわが家の土間にはいった。すると返辞はなく、返辞の代わりに、彼は、妙な二人を、眼の前に見出した。
蓬子よもぎこ が、来ていたのである。
背を向けて、お客のように、いつも麻鳥がいる机の側に、きちんと、澄ましこんでいた。
明日香はと、見まわすと、台所の流しを後ろにして、これも、ちょくなんと、すわっている。
どっちも、物も言わないで ── そして、まるで、にら めっこでもしているように、留守の間を、そうしたままで、いたらしい。
「・・・・おや。どうしたの」
麻鳥は、おかしそうに、つんとしている二人の姿を見くらべた。
ふしぎは、そればかりではない。麻鳥がここに戻ると、明日香も、蓬子も、まつ毛に露をたたえ、今にも泣き出しそうになった。
「おお、めずらしい。よもぎ さんじゃないか。ずいぶん、長いこと、見えなかったな。・・・・いま、来たのか。もう、さっきから来ていたのか」
「麻鳥さま。ご無沙汰いたしました」 と、蓬子は今気がついたようにお辞儀をした。
しかし、なお充分、明日香の方へも心をおいて ── 「けれど麻鳥さまも、お聞き及びでございましょう。わたくしのおあるじ の常盤様が、去年の秋、にわかに、さきの 大蔵卿長成さまへ、御再婚になったのを」
「ええ、伺っていますとも」
壬生みぶ のところとはちごうて、一条のお館には、古いお召使がたくさんいますし、常磐様はまた、わたくしばかりを、お頼り遊ばすので、ここへ参りたく思っても、なかなか以前のようには来られなくなったのです」
「結構ではないか。あなた方には、用もない町でしょうし、たまにこうして、お目にかかれば」
「ええ、どうせ、そうでしょうとも・・・・。麻鳥さまは、わたくしが久しくここへ来ないで、よいあんばいだと、思っておいでになったのでしょう」
「はははは。そんなことはありませんよ」
「でも。・・・・もう分かりました。分かっています」
「はて。何が・・・・ですか」
「知らない。いいえ、知りません」
蓬子は、横を向いて、急に、はらはらと、泣き出した。
すると、白珠ように顔を澄まして、二人を見まもっていた明日香が、また、ぽろぽろと涙を見せた。ふた つのたもと で、その顔をつつんだと思うと、ふいに起ち上がって、水屋から外へ、跣足はだし のまま駆け出してしまったのである。
「あっ、明日香ちゃん。── 明日香ちゃんてば、どこへ行くのか。おうい、どうしたの」
荒壁の窓から、麻鳥は首を突き出して、呼びぬいた。けれど、明日香は戻ってこなかった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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