〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻
2013/05/22 (水)
簪
(
かんざし
)
(三)
「
執念
(
しゅうねん
)
深いものですね。何しろ、明日香ちゃんは、鬼に見込まれたようなものですよ。気をつけなければいけません」
麻鳥は、その後で、いつものように、良全の容態を
診
(
み
)
て、
「まだ薬がありますか。
失
(
な
)
くなったら取りにおよこしなさいよ」
と、力づけたり、この後の注意を与えたりして、やがて、我が家へ帰った。
するとまた、その翌日、明日香が、
「おじさん、この
簪
(
かんざし
)
は、昨日の人が、おじさんに返すと言って、
家
(
うち
)
へ置いて行ったんですって、おじさんの簪なんでしょう」
と、彼の手へ返しに来た。
それは、彼が宮廷にいた頃、冠の落ちぬように、常に、冠の
巾子
(
こじ
)
から髪の根へさしていた品である。一部に金銀が用いられ、
露草
(
つゆくさ
)
の彫りなどがしてある
贅沢
(
ぜいたく
)
さは、
伶人
(
れいじん
)
に過ぎた物であるが、元服のとき、いまは亡き母が、 「生涯の持ち物ゆえ」 と、自分の品々までを
鋳
(
い
)
つぶして細工師に造らせてくれた簪だった。
だからこれは、母の
遺物
(
かたみ
)
でもあった。
けれど、いつか
蹴上
(
けあげ
)
の朝、明日香の身を助けて帰った時、朽縄が良全夫婦に貸した金は、自分が代わって返済するといい切って来たので、その後は、朽縄の手へ
物代
(
ものしろ
)
として
簪
(
かんざし
)
を与えてしまった。── で、当然、貸借のもつれは、もうすんだものときめていたのである。
「・・・・へえ。これを、あの欲深が、返して来たのか」
「そうですって」
「どうしてだろう?」
「わたくしには、分かりません」
「けれど、朽縄が、ただ返すわけはないからね。名にかまた、難題をいって来るよ。その時の要心に、明日香ちゃんの
家
(
うち
)
へ置いておきなさい。・・・・わしには、もう再び、これを冠に
簪
(
かざ
)
す日はないから」
「はい」
明日香は、うなずいた。けれど、彼女の帰った後で、ふと見ると、簪はやはり書箱の上に置いてあった。
蹴上
(
けあげ
)
のこと以来、彼女はのべつ麻鳥のそばへ、遊びに来ていた。それがこのごろは、なお繁くなり、我が家へ帰るのは、寝る時ぐらいなもので、ここにいる時間の方がはるかに多い。
麻鳥も、妹のように、可愛がった。また、何よりは、この
乙女
(
おとめ
)
の才を愛した。
筆
(
て
)
もよく書くし、歌も
詠
(
よ
)
む。
もともと良然夫婦なる者は、平治の乱以前までは、右衛門信頼の
車侍
(
くるまざむらい
)
であったという。主人の信頼が、大乱の元凶として斬られたため、家従はみな山野へ四散するしかなかったが、良全は、貧民の中にかくれて、露命をつないで来たのである。明日香の生い立ちには、良い環境と、そのところの多少のしつけもあったのだ。
「みがけばこの
娘
(
こ
)
の玉の質は ──」
と思うので、麻鳥もつい側へおいた。書を読ませたり、時には、後ろからの筆の手を取ってやったりしていた。
「明日香ちゃんは、麻鳥さんとこの、お嫁さんになったんだろ」
近所の子は、からかった。
上下とも一般に、早婚の時代である。十四、五歳の人妻もめずらしくはない。性に早熟な貧民街の子たちなので、もっと露骨なことも言う。明日香は、そのたびごとに真っ紅になって、麻鳥のそばへ、逃げ込んで来るのであった。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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