〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/22 (水) かんざし (二)

どうしたの。え、明日香ちゃん。わしの帰るのを待っていたのかい」
「え、え」
「また、人買いの朽縄くちなわ が来たんじゃないか」
「朽縄が来て、今日はどうしても、わたくしを連れて行く、わたくしを渡せと、どなっています。・・・・ ですから、跣足はだし で逃げ出してしまったの」
「なにも、そんなにこわ がることはない。あの人から借りたお金は、わしが返して上げてあるのだからね。わいが行けば、朽縄も、乱暴は言えまいよ」
牛飼町の横から横へ曲がって行くほど、きたな さ、貧しさは、ひどくなる。車工匠くるうまだくみ良全りょうぜん の家も、文字通りな埴生はにゅう (ねばつち) の小屋であった。
さっきから家の中では、朽縄とあだなのある例の女衒ぜげん が、良全夫婦をおど したりすかしたりしていた。彼のほかに、今日はもう一人、あで に着飾った町風まちふう の年増女も一緒だった。── そして、女は、
「ねえ、おまえさんたちだって、なにもこんなゲジゲジ長屋に一生貧乏していたいわけじゃないんでしょう。そこを、相談に乗って上げようというんじゃないか。あんな を持ってさ。── なぜ、子どものためにも、出世の道を、考えてあげないの」
と、親切ごかしに、夫婦を説きつけているのである。
これは、白拍子町で有名な妓舘の女手代おんなてだい で、朽縄が、明日香あすか を見せに、連れて来たものであるが、明日香は、逃げてしまうし、夫婦もなかなか手放すような気配はない。
手に乗らないと見ると、朽縄は、
「じゃあ、去年から貸した金を、たった今、立派に返してもらおうじゃないか」 と、開き直った。
「明日香の体は、とうに、奥州のさるお人へ売り渡してあるものだぞ。なに、覚えがないと、じゃなぜ、この春、おれが渡した金をつか ったのか。だが明日香もまだ子どもだから、遠国へやるのも可哀そうだと、こちら様のお慈悲で、行く末、都の白拍子に仕込んでやろうと仰っしゃるのだ。勿体もったい ねえ話よ。それを、なんのかのといやがって」
外には、人だかりがしていた。そこへ麻鳥が明日香を連れて帰ると、近所の首は、なお、見世物をのぞくようにわらwら寄って来た。そして、餓鬼草紙の絵そのままな群れが取り巻いたので、朽縄も連れの年増女も、不気味になったのであろう。
「また来るからよく考えておけ」
と、捨て言葉を投げて、そそくさと、立ち去った。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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