神楽ヶ岡の和気百川
の家を出た麻鳥あさどり は、いそいそと、今、坂道を降りて来た。 去年の今ごろ、文覚もんがく
の手紙を持って、百川を訪ね、医学の入門を許されてから、彼は、教授日ごとに、神楽ヶ岡へ通っていた。 百川の門には、十人ぢかい医書生もいたが、それらの直弟子じきでし
をもこえて、麻鳥の学業は長足な進歩をとげた。それは彼の苦学的精進しょうじん
にもあるが、彼が貧乏町に住んでいて、実地に、たくさんな病人を手がけている善行の余徳によるものだ ── と師の百川は言っている。 宋そう
医学の── まだ極めて幼稚なそのころの ── 解剖かいぼう
、生理せいり 、本草ほんそう
などの初歩を習得したに過ぎないが、彼自身もまた、 「自分も少しは、素人しろうと
医者の域を脱して来たような」 と、医術への興味と、そして、貧民たちから歓よろ
ばれることの楽しさを、日増しに高めていた。 朝廷の舞楽部にさえいれば、なに不自由もないのに、彼はこうして、好んで貧しい牛飼町を出ては、牛飼町へ戻って行く。 しかし、そこでの生活には、貴族社会では求めても得られない張り合いといったような何かがあるに違いない。破れ草履を引きずり、ときには、空す
き腹はら をかかえていても、彼の顔はどこか生活を楽しんでいるような頬ほお
の色を持ち、常にいそいそ歩いていた。 「ああ今年も・・・・桐の花が咲いてきた。今年も」 都の藪やぶ
や道ばたには、桐の木が多い。 桐のこずえの紫を見るたびに、麻鳥はいいしれない恐怖に打たれた。人にはその褪あ
せ紫の花の傘かさ が、夏隣なつどな
りの象形にも見えるであろうが、彼には、夏を望んでやって来た病魔の肌はだ
みたいに思えるのだった。 この花を見る頃から秋にかけて、地上には、疫疾えきしつ
、疫痢えきり 、疫癘えいきれい
などという厄病が貧民街を吹きまくるのである。── 毎年ではないが、数年つづくことはめずらしくない。 例えば、ここ二世紀ほどの間にも、 「長保二年ヨリ三年ニ亙ワタ
リ、天下大疫、死者道路ニ盈ミ
ツ」 「寛仁元年、疫疾盛行」 「治安元年、疫痢エキリ
流行、死者相ツグ」 「永承六年、七年、八年、年々天下大疫」 「長承元年ヨリ三年、諸国、悪疫蔓延マンエン
」 「保延元年、夏秋、疫痢流行」 といったふうに、例を拾えば、限きり
がない。 そして疫えき
といい痢り といっているが、それらはみな、症状も混同していて、中でも赤痢せきり
という病が最もこわい症状であることを、麻鳥は習んだ。 “病原候論” という医書に、 |
──
赤痢せきり ハ、脾胃ヒヰ
ヲ冒スノ邪気、腎胃ジンヰ ヲ破傷シ、ソノ血、大熱ヲ伴ヒ、痢リ
ニ混コン ジテ下クダ
ル |
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とあるが、病理も薬方やくほう
も、はなはだ、あいまいで、医家の口伝くでん
みたいになっている。とはいえ、それを治なお
したという名医あるをまだ聞かない。 ほとんど、不可抗力なものとされ、およそ死ぬ限りの人間が死に、自然に、終熄しゅうそく
するのを待つとするしか、方法を知らなかった。 現げん
に、つい去年もである。 去年の七月七日、さきの内大臣藤原公教ふじわらきみのり
が死んだのは、その赤痢だと言われている。 彼の家族や召使数人も同じ症状で、バタバタ死んだ。もちろん、洛中一帯にも、無数の死者が、冬までつづいた。牛飼町などは、そのため、人口の三分ノ一は減ったように思われたほどである。 「・・・・どうか、今年の夏は、疫魔の襲来がありませんように」 それの猛威の前には、ほとんど無力なことを知っている麻鳥は、祈りに似た気持で、つぶやいた。桐の花を仰ぐと、自然に、掌て
を合わせたくなった。 「おや、明日香あすか
ちゃんらしいが」 いつか六条に近かった。 牛放しの牧の柵さく
にも、桐の木がある。花の下に、しょんぼりと、人待ち顔に佇たたず
んでいる少女があった。 「あ、おじさん。麻鳥さん ──」 明日香は、彼を見つけると、駆け出して来た。そして彼のさし伸べた手につかまるなり泣き出してしまった。
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