〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/22 (水) ゆめ   うら (四)

「まあ、もう少し、お話し遊ばしてください」
「まだ何か、語り足らぬのか」
「帰りみち 、車の内で、うつらうつら揺られ心地のままに、ふしぎな夢を今宵見ました」
「夢?」
「夢ではなかったのかも知れませんが・・・・」
「なんだ、他愛もない」
「夢にせよ、うつつ にせよ、まこと、ふしぎなものに会いました。八条堀川の御所を出て、もう五条も近いかと思われるうち、徳子はわたくしのひざにすやすや眠ってしまい、その寝顔に誘われて、わたくしもいつか居眠っていたものとみえます。・・・・と、車は、雲の中を行くように、わだち の音も消し、耳には、静かな波音が聞こえて来ました。・・・・おやと、見まわすと、見る限り美しい海の波路を行くではありませんか、── おう、わたくしはどこへ行くのでしょう。夢のうちに言った気がします。・・・・するとどうでしょう、車の先を、二匹の雄狐おぎつね雌狐めぎつね が跳んでいます。そしてやがて蓬莱山ほうらいさん のような島が見え、五彩のにじ が、立ったと思うと、たれの声とも知れず ── 厳島いつくしま よ、厳島よ、と聞こえました。狐の姿は、もう見えません。波の音と、琵琶びわ の音が、わたくしをふと揺り醒醒 ましました」
「・・・・眼がさめたのか」
「醒めてもなお、厳島よと天から聞こえたような声と、琵琶の音は、いつまでも耳にあるような気がするのです。・・・・きっと、こうではないかと、わたくしは、車の内で、夢占ゆめうらな いしました」
「どう、解いたの」
雌雄めすおす の狐は、ちょうど、あなた様が三十の昔、久安の三年、祗園ぎおん 神輿みこし に矢を射たかどで罪に問われ、御幽居のうち、ある日、蓮台野れんだいの へ、鎧師よろいし に約束した狐の生皮いきがわ るため、弓を持ってお出ましになったことがおありでした」
「おお、そんなことが、あったな」
「── 矢を向けたはら み狐のあわれさに、弓を引き絞りながら、ついに射殺しも得ず、矢をわざと空へ放って、むなしく立ち帰って来たと ── あのときのお話でしたが」
「よく覚えているな。そんなことを」
「じつは、あなた様には、黙って、その後、少納言信西様から贈られた “野風のかぜ ” と銘のある琵琶を、ほこら に祭っておりました。狐は、妙音天みょうおんてん のお使い、琵琶は妙音天の好ませ給う楽器。・・・・信西様のおかたみにもなったお品ですから」
「それは、良い考えだった。・・・・信西入道の最期は、想い出すのもよい気持ではないので、以来、おれは野風を手にもしなかった。それが、おまえにとって、妙音天の御神体になれば、 き信西殿も、喜んでいるに違いない」
「・・・・ですから、こよいの夢は、あなた様に助けられた夫婦狐みょうとぎつね が、蔭ながらわが家をまも って来てくれたしるし であろうと思います。そして、わが家の氏神の厳島へ、まれには、御参詣ごさんけい もあるようにと、妙音天のお使いが、導いたのではございますまいか」
「厳島が・・・・わが家の氏神か」
「池ノ尼公様からも、伺っておりました。御祖父正盛様、お父君忠盛様、いずれも西国に御任地をおもちなので、厳島を家の氏神とあがめ、いくたびとなく、舟を がせては、あの島へ、ご参詣もあったものと・・・・」
「そうだ、ちがいない」
「保元、平治の二度までの戦いにも、ふしぎに、一族には、さしたる犠牲にえ もなく、かえって、こう一門の栄を見るばかりか、滋子が、皇子を生みまいらすなど、ただごととは思えません。・・・・どうか、あなた様も、まれには、御祖父や父君のように、氏神への御信仰ぐらいは、お心にもってくださいまし」
「む。・・・・厳島へなあ」
「ええ、厳島へ」
「行こうよ、今年は」
清盛は、はっきり、答えた。
池ノ尼に対してすら、信仰を いられたりすると、いつも露骨にいやな顔をする良人おっと が、余りに快然ときいてくれたので、
「え、ほんとですか」
時子は、疑うように、問い返した。
彼女の眼もとに、清盛は、笑い出してしまった。何もかも彼には読めていた。
彼は、あるばあいは、妻の望むままな、愚夫になってやることも、心得ていた。根ほり葉ほり賢夫になる。妻の夢を信じてやろう。また、上皇のお望みにもしたが っておくとしよう。君には忠、妻にはよい良人。それでよい。
「いや、信心に偽りはいわぬ。かならず今年は厳島へもう でる。誓ってよい、誓っておく」
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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