〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/22 (水) ゆめ   うら (三)

鼓の音や、舞の扇を、興ずるままの人々にまかせて、やがて清盛は、長い廊や細殿を、奥の方へ歩いた。── 時子の帰ったことを、侍女から告げられたからである。
良人は、きげんがよい。酒気のせいばかりではない。
妻ももとより楽しかった。何から話していいかわからないほどに。
清盛は、訊ねた。
皇子みこ のお肥立ひだ ちは」
「おすこやかでいらっしゃいます。それはもう、ようおかみ にお似あそばして」
「そうか。滋子しげこ も」
「ええ、女御にょご の御母にも」
と、時子は、良人のいい れている言葉を、正しく、言い改めて、さりげなくほほ笑んだ。
妻の妹が、皇子みこ を産んだ。家門の吉瑞きちずい である。よろこびに違いない。またひそかに、予期していたことの実現であったにも相違ない。
だが清盛には、喜びながらも、何か、小濁ささにご りが胸のなぎさ へ寄って来る。 「帝血われに何かあらん」 そんな負け惜しみめいたつぶやきもわく。
清盛には今もなお、自分の生みの父は、白河法皇かもしれないという考えが、潜在している。人もまた今ではそれと決めている。── すでに自分が帝王の御子みこ なのだ。何を今さらという気があった。
また一面には、みずから問うて、あるやましさが、彼自身を、ふと不愉快にしがちなことも、いな めない。一門のことごとくが、有頂天に、平家万歳を唱えたりするのを見ると、われにもあらずその不快さが面色に出てしまう。
「仙洞におかれては、ごきげんよくお せられたか。何か、御話なども、あったか」
「それはもう勿体もったい ない御諚ごじょう でした。わが家のことから、あなた様の末始終にまで、そんなにも御心にかけて給わるかと、今さらのように、ただただ、ありがたい思いでございました」
「・・・・・」
清盛は、そういう妻の顔を、見すましているだけだった。── 自分という者を、いや平家が持った武力を、上皇が、いかに御心をこまやかにつかって、御自身の手に籠絡ろうらく してしまおうとしていられるかが、彼には、見えすいていたのである。
時子は、なお、口を極めて、上皇の御寵恩ごちょうおん を、またおやさしさを、たた えてやまなかった。
清盛は、欠伸あくび をし出して、
「よかった、よい一日を過ごしたの。そなたも、家にのみいないで、これからおりおりに、お伺いいたすがよい。・・・・疲れたろう。おれも眠い。あすはまた、朝廷の集議。早朝に出仕せねばならぬ」
と、立ちかけた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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