〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/21 (火) 良 人おつと ざん (三)

時子の妹滋子しげこ は、去年、上皇のおたね をやどし、つつがなく、一皇子を生んでいた。
後白河の第三皇子、憲仁のりひと である。
「姉君にお見せしたい」
と、滋子は便りの筆にいい、時子も、
「ぜひ。見まいらせたや」
と、何度も、手紙のうちに書いた。
滋子は、いちばん末の妹で、姉の時子に育てられ、姉を母とも思っている。年も時子より二十も下であった。けれど、仙洞の女御にょご となってからは、姉は臣下の妻であり、会うのも、ままにならなかった。
上皇は、姉妹の情を察しられて、 「いちど、憲仁のりひと の顔を見にまか れ」 と、時子をお招きになったのである。時忠は、彼女の介添かいぞ えに付いて来たわけだった。
半日近くを、時子は、仙洞の内殿ないでん 深くに、妹と、そして、妹の生みまいらせた皇子の乳の香と、一つになって、語り暮らした。
父上皇のお声も、おりおり、他愛のない笑いに交じって、梅の坪 (中庭) ごしに、もれてくる。
時忠は、そこまで行けない。坪のこなたの細殿で、
「はて、退屈な・・・・」
すべ なげに、控えていた。
だが、また、皇子のおむずがりなど聞こえて来ると、彼は、不思議な感に打たれ出した。── 滋子は、わが妹、当然おれは、あの皇子の伯父である。
「分からんものだ。・・・・おれが、皇室の連枝になるとは。・・・・生涯、貧乏公卿で果てた水薬師みずやくし の父時信が生きていたら・・・・なんといって驚きあきれるだろう」
ぴつねんと、回想にふけった。
まだ、時子も清盛へとつ がない、あのころを。
買食いしたさに、軍鶏しゃも を抱えて、町へ行き、闘鶏とり 博奕ばくち をやっては、ぜに を得ていた小冠者の腕白時代を。
また、ちょう じてから後も、祗園ぎおん まつりに、酔っ払って、叡山えいざん の法師や神官をなぐりつけ、ついに、洛中の大騒動やら清盛の大難をひき起こしたりした ── 青年客気のひところを。
「いや、これからは、ただの臣下ではない。皇室につながる身だ。姉君を意見するどころか、自分も戒心しなければならぬ」
彼の自覚は、将来の、より以上な立身への夢へ、つながっている。かつての藤原氏が意のままにしたような栄花と権勢への門が、自分の前にも開かれたという野心と、別なものではない。
坪を隔てた内殿にも、姉、妹の笑い声が、むつ まじい。
よろこびは、相似ている。
しかし、時忠の喜びと、姉妹の喜びとは、まったく違ったものだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next