〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/21 (火) 良 人おつと ざん (二)

昔と違い。時子も今は、めったに、外へ出ることもない。
出るにも入るにも、六波羅殿の北の方とかしず かれては、身軽にもゆかないし、また、子どものいつか、男女十人近くも産んでいる。
「よく、産んだもの」
と、われながら、時にはおどろく。
しかし、良人おっと の清盛も、男ざかりだし、彼女とてまだ四十を出たばかりである。その良人がなかなか眼の離せない多情な人だけに、彼女も今から老いこんではならないと気を張っていた。
十人近い子の母でありつつも、良人に飽かれない妻でもあろうとする女の四十は、なかなか男心には んでも酌みきれない複雑さと不愍ふびん な心がまえとを、潜めているにちがいない。
その一例が、去年の常盤と良人との、問題であった。
まず、それは、片づいたので、彼女もほっとしたところであろう。同時に、彼女は、
(もう、これ以上、良人の出世は、望みたくない。ただ、ふたたびあんな苦労のないように)
と、いう願いで、いっぱいだった。
女が良人をつなく美に自信が欠けてくるころ、良人の方は、男としての体力や、知恵体験を完璧かんぺき して、全欲望を、「これからの生きがい ── 」 とばかり、いろんなことをやり出すのである。良人が、妻にとって、始末の悪い悪童になり出す時期が、ちょうど、彼女の年齢に来ていた。
── ふと。車が止まった。
時忠の車が、彼女の車の横へ、寄っていた。
「姉君。・・・・御簾みす をあげて、しばし、御見物なさいませんか」
「どこですか。ここは」
「西八条です。── かなたは、島原の里、壬生みぶ の里。ふた筋の川は、紙屋川かみやがわ御室川おむろがわ です。・・・・そして、はるか末に、よど が見えましょう。なんと、広やかなながめでしょうが」
「仙洞御所に伺うのに、何しに、こんな田舎いなか めいた都はずれへは」
「いえ、いえ。さして遠まわりでもありません。・・・・まあ姉君、よく見てごらんなさい。かなたこなたに働いている数千の人間を」
「あれは何をしているのです」
「新しいまち をここに てようとしているのです。なわ を引いて、地割じわりあん じている役人、土を運び、土を盛っている土工の群れ。また、遠くのみ の音が聞こえるのは、石工いしく や大工たちの工匠小屋たくみごや です。半年もしたら、この辺は、まるで違ってしまうでしょう」
「そして、何が出来るのであろう?」
「西八条のお住居です。また、御一門や家臣たちの家々です。自然、それのともな町屋まちや もできましょう。── 古い都の中に、まったく新しい一区域、つまり平家町が、生まれるので」
「まあ、六波羅があるうえに」
「六波羅などは、狭くてならぬと、将来を考えての、おくわだ てに相違ない。何しろ気宇きう の大きな清盛どののこと、何を考え出すか、測り知れません。まったく腹の大きなお人だ。・・・・そのお人の妻たる姉君です。よう御自覚あそばせい」
「時忠どの。あなたは、そんなことを、わたくしが、喜ぶとでも思っているのですか」
「もちろん、女と生まれて、そいう良人を持ったことは、祝すべきだと思いますが」
滅相めっそう もない。六波羅だけでもたくさんです。そのうえ、西八条の開地など、思うてもわずら わしい。殿に、思い止っていただきます」
興もなげに、彼女はれん を下ろした。時忠には意外であった。じつは、どんなに姉も歓ぶかと、わざわざ道をまわらせて来たのだった。── それが、夫婦の間で、また問題になったりしては、逆効果というものである。
「・・・・いや、女とは、気の知れぬものだ。欲心、執着は、男以上なのに、歓ぶこと、歓ばない」
時忠は、車の中でつぶやいた。
二両の車は、やがてそこから遠くない八条堀川の ── 後白河上皇の仮御所へ近づいていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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