〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/21 (火) 良 人おつと ざん (一)

時忠は、蹴上けあげ に行った次の日も、また早くに起きて、外出した。
前日と違い、今朝は、右少弁うしょうべん の衣冠を正し、乗物も馬ではなく、網代車あじろぐるまを用い、従者も多数あまた 召し連れて、六波羅の女房門へ、横着けにした。
「時忠です。お支度がよろしかったら、すぐ御供をつかまつ りましょう」
前栽ぜんさい で車を降りて、御台盤所の召次めしつぎ に、申し入れた。
邸内の車寄くるまよせ には、一両の糸毛車いとげぐるま が、紫房の御簾みす れて、乗るべき人を待っていた。
車の花漆はなうるし の屋形には、泥のあと一つなく、天平様てんぴょうようちょう や鳥の毛彫けぼり をした金銀の金具など、眼もさめるほどきらびやかである。
いや美しさをいうなら、糸毛車などは末のことで、やがて奥の細殿からこの車寄の広敷ひろしき へ出て来た人々の色彩は、何と言ってよいか分からない。
それはたくさんな女房たちに取り囲まれた御台盤所の時子と、母に手を引かれた幼い姫とであった。姫は、この時mだ七つ。後には、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生みまいらせた平ノ徳子 (建礼門院) なのである。
「時忠どの。お待たせしました」
「やあ、姉君でしたか。・・・・今日はまた、お見違えするばかりにあで やかな御盛装で」
「仙洞へ伺うことなど、めったにありませんもの。・・・・それに、初春でもありますから」
「結構です。お美しく飾られるぶんには、いくらお美しく遊ばしても、たれも異議はとな えますまい。── いつか時忠の申し上げた苦言が、近ごろおくらか、功を奏して来ましたかな?」
「おたわむ れはおよしなさい。あのように皆が、笑いをこら えて、見ているではないか」
「笑えばよいのに、なぜ女房たちは笑いをこら えてしまうのでしょう。きび しいお人は、池ノ尼殿おひとりでたくさんです。姉君までが、尼殿に似て、こわいお方になっては困る。・・・・のう、徳子」
と、時忠は、姫のつや やかなうない髪 (童形どうぎょう切下きりさ げ) をなでた。そして、
「姫。・・・・この叔父さまと一つ車に乗って行こう。な、叔父さまが、車の中で、おもしろい話をしてあげる」
と、抱きかけた。
「いや」
と、徳子は、母の右のたもと から左の袂へ、身を交して、かぶりを振った。
初めて、女房たちの笑いが、声になって出た。笑いの波に包まれながら、時子は姫を抱いて車へ入った。── 時忠の車が、その後に続いた。そして六波羅並木を、武者、車役人、雑色など、列をなして、八条堀川へ向かって行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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