男は、やっと、坂の上で追いついたが急に、ものも言えない息づかいである。 「わしのことかい。うしろで、呼んでいたのは」 吉次は、腑
に落ちない顔をして、自分の馬の前に、ぺたと手をついた乞食こじき
のような姿の小男へ、眼をみはった。 「たれか知らないが、見たこともない人だなあ。なんだい、馬の前に座り込んで」 「はい、はい。お旅立ちを遮さえぎ
って、申し訳ございません。・・・・わ、わたくしは、六条の貧乏町に住んでいる麻鳥あさどり
という者でございますが」 「何か、人違いじゃないのか。六条のなんだって?」 「六条の牛飼町にいる者です。はい・・・・その、同じ貧乏長屋の近所に、日ごろ、親しくしている車工匠くるまだくみ
の良全りょうぜん というお人がおられまする。・・・・ところが、今朝ほど、家の内から、余りに、御夫婦の嘆き声がもれるので、何事かと、訊き
いてみますと、可哀そうに、ひとり娘の明日香あすか
というお子を、人買いの朽縄くちなわ
という者が、無理無態に、連れて行ってしもうたと・・・・死ぬばかりに泣いているではございませんか」 馬の背の吉次は、急に、うしろを振り向いた。 彼を待っていた供の群れも、何か、騒ぎ始めているからである。そして、そこの、男どもがおさえ合うのを、必死にもぎ抜けようとしながら、 「──
麻鳥さんっ、助けてえっ。麻鳥さあんっ」 と、泣き叫んでいる乙女おとめ
の声もしたのだった。 「おお。明日香あすか
ちゃん、お待ち・・・・大丈夫だよ。わたくしが、お願いして上げるから」 麻鳥も、それを知ると、思わず立って、手をもって、答えてやった。そして、吉次の馬の鞍くら
へ、つかまって、なお、訴えようとしかけた時、 「ふざけるな、この傀儡くぐつ
め」 と、供人の群れの中から人買いの朽縄くちなわ
が飛んで来て、麻鳥の襟えり がみをつかんだ。 「やい。無理無態に連れ出したとは何事だ。てめえは、知るまいが、車工匠くるまだくみ
の良全が、長の大病だというんで、なん度も、金を貸してあるのだぞ。もう、この子一人すら養えませんと、良全夫婦が頼むので、金のかたにも足らねえが、旦那にお頼みして、平泉へ連れて行っていただこうというのに。・・・・な、なんだ。他人のくせしやがって」 ふしくれ立った朽縄の両腕が、怒りにまかせて、かぼそい麻鳥の体をがくがく小突いた。まるでねじ切ってしまいそうにした。 麻鳥には、抗する力もないし、勇気もない。ただ、締め上げられる苦しさに、足をばたばた浮かせて、 「お金は、返します。お金は、わたくしが、どんなに、働いても、お返しします」 と、絞しぼ
られるような声で叫んだ。 「うそをつけ、なんで、てめえなどに、返せるものか。── 帰れっ。旦那のお旅先に、泣き吠ほ
えやがって、縁起えんぎ でもねえやつだ」 すんでにことで、突き倒そうとするのを、吉次は、馬の上からあわてて止めた。 「よせ。朽縄」 「だって、旦那・・・・くせになりまさ」 「いやいや、あの子は。返してやれ。罪な真似はしたくないよ。前もって、生木なまき
を裂くようなことなら見合わせろと言っておいたじゃないか」 「でも、病人の薬料はおろか、その日も食いかねているざまなんで、こっちは、お救いのつもりで、してやったことなんです」 「なんでもいい、戻してやれ、戻してやれ。金売り吉次は、大江山おおえやま
の鬼とは違うぜ」 麻鳥は、ふたたび、地に手をついて、彼の姿を三拝九拝した。そして、明日香を手招きした。明日香は、駈け寄って来るなり、彼の胸に抱きついて、いつまでも、泣きじゃくった。 「泣くんじゃない・・・・もう泣くんじゃない。・・・・ああよかった。明日香ちゃん、もう心配しなくてもいいんだよ。さ、お家うち
へ帰ろう」 麻鳥は、彼女の顔の、黒い涙を、ふいてやった。 涙に洗われた垢あか
の下から、天麗の美玉ともいうべき少女の顔がふき出された。笑窪えくぼ
もやっと見え出した。── もう辺りには、たれも人影が見えなくなっていたからである。 その明日香も、麻鳥に手をひかれて、やがて、坂の下へ、小さくなって行く。 ──
と。その後からまた、木蔭を出て、粟田口の方へ、降りて行く二騎の人がある。 朱鼻と、時忠だった。 「おい、おい。伴卜ばんぼく
」 「はあ」 「今のが、おまえの言った奥州の吉次か」 「そうです。どう思われましたか」 「かくべつ、怪しむところもないじゃないか。あれは、おまえなどよりは、よほど人がらの良い商人あきゆうど
だな」 「ははあ。・・・・てまえよりもですか。これは、恐れ入ったお鑑識めがね
だ」 「「少なくも、和殿わどの
よりは、情味もある。── なんであんな乙女を、人買いの手に買わせたかは知らぬが、返してやったのは、人なみに、人情もある証拠だろう」 「てまえには、それがないのでしょうか」 時忠は、笑って、返辞をしなかった。そして、ひとり言のように言っていた。 「・・・・明日香、明日香。いい名だなあ。朽縄が、目をつけるはずだ。あんな乙女が、牛飼町の土に咲くとは、いつの世、どうした風に運ばれて、こぼれ咲いた胚子たね
だろう?」 |