〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/21 (火) おと (二)

男は、やっと、坂の上で追いついたが急に、ものも言えない息づかいである。
「わしのことかい。うしろで、呼んでいたのは」
吉次は、 に落ちない顔をして、自分の馬の前に、ぺたと手をついた乞食こじき のような姿の小男へ、眼をみはった。
「たれか知らないが、見たこともない人だなあ。なんだい、馬の前に座り込んで」
「はい、はい。お旅立ちをさえぎ って、申し訳ございません。・・・・わ、わたくしは、六条の貧乏町に住んでいる麻鳥あさどり という者でございますが」
「何か、人違いじゃないのか。六条のなんだって?」
「六条の牛飼町にいる者です。はい・・・・その、同じ貧乏長屋の近所に、日ごろ、親しくしている車工匠くるまだくみ良全りょうぜん というお人がおられまする。・・・・ところが、今朝ほど、家の内から、余りに、御夫婦の嘆き声がもれるので、何事かと、 いてみますと、可哀そうに、ひとり娘の明日香あすか というお子を、人買いの朽縄くちなわ という者が、無理無態に、連れて行ってしもうたと・・・・死ぬばかりに泣いているではございませんか」
馬の背の吉次は、急に、うしろを振り向いた。
彼を待っていた供の群れも、何か、騒ぎ始めているからである。そして、そこの、男どもがおさえ合うのを、必死にもぎ抜けようとしながら、
「── 麻鳥さんっ、助けてえっ。麻鳥さあんっ」
と、泣き叫んでいる乙女おとめ の声もしたのだった。
「おお。明日香あすか ちゃん、お待ち・・・・大丈夫だよ。わたくしが、お願いして上げるから」
麻鳥も、それを知ると、思わず立って、手をもって、答えてやった。そして、吉次の馬のくら へ、つかまって、なお、訴えようとしかけた時、
「ふざけるな、この傀儡くぐつ め」
と、供人の群れの中から人買いの朽縄くちなわ が飛んで来て、麻鳥のえり がみをつかんだ。
「やい。無理無態に連れ出したとは何事だ。てめえは、知るまいが、車工匠くるまだくみ の良全が、長の大病だというんで、なん度も、金を貸してあるのだぞ。もう、この子一人すら養えませんと、良全夫婦が頼むので、金のかたにも足らねえが、旦那にお頼みして、平泉へ連れて行っていただこうというのに。・・・・な、なんだ。他人のくせしやがって」
ふしくれ立った朽縄の両腕が、怒りにまかせて、かぼそい麻鳥の体をがくがく小突いた。まるでねじ切ってしまいそうにした。
麻鳥には、抗する力もないし、勇気もない。ただ、締め上げられる苦しさに、足をばたばた浮かせて、
「お金は、返します。お金は、わたくしが、どんなに、働いても、お返しします」
と、しぼ られるような声で叫んだ。
「うそをつけ、なんで、てめえなどに、返せるものか。── 帰れっ。旦那のお旅先に、泣き えやがって、縁起えんぎ でもねえやつだ」
すんでにことで、突き倒そうとするのを、吉次は、馬の上からあわてて止めた。
「よせ。朽縄」
「だって、旦那・・・・くせになりまさ」
「いやいや、あの子は。返してやれ。罪な真似はしたくないよ。前もって、生木なまき を裂くようなことなら見合わせろと言っておいたじゃないか」
「でも、病人の薬料はおろか、その日も食いかねているざまなんで、こっちは、お救いのつもりで、してやったことなんです」
「なんでもいい、戻してやれ、戻してやれ。金売り吉次は、大江山おおえやま の鬼とは違うぜ」
麻鳥は、ふたたび、地に手をついて、彼の姿を三拝九拝した。そして、明日香を手招きした。明日香は、駈け寄って来るなり、彼の胸に抱きついて、いつまでも、泣きじゃくった。
「泣くんじゃない・・・・もう泣くんじゃない。・・・・ああよかった。明日香ちゃん、もう心配しなくてもいいんだよ。さ、おうち へ帰ろう」
麻鳥は、彼女の顔の、黒い涙を、ふいてやった。
涙に洗われたあか の下から、天麗の美玉ともいうべき少女の顔がふき出された。笑窪えくぼ もやっと見え出した。── もう辺りには、たれも人影が見えなくなっていたからである。
その明日香も、麻鳥に手をひかれて、やがて、坂の下へ、小さくなって行く。
── と。その後からまた、木蔭を出て、粟田口の方へ、降りて行く二騎の人がある。
朱鼻と、時忠だった。
「おい、おい。伴卜ばんぼく
「はあ」
「今のが、おまえの言った奥州の吉次か」
「そうです。どう思われましたか」
「かくべつ、怪しむところもないじゃないか。あれは、おまえなどよりは、よほど人がらの良い商人あきゆうど だな」
「ははあ。・・・・てまえよりもですか。これは、恐れ入ったお鑑識めがね だ」
「「少なくも、和殿わどの よりは、情味もある。── なんであんな乙女を、人買いの手に買わせたかは知らぬが、返してやったのは、人なみに、人情もある証拠だろう」
「てまえには、それがないのでしょうか」
時忠は、笑って、返辞をしなかった。そして、ひとり言のように言っていた。
「・・・・明日香、明日香。いい名だなあ。朽縄が、目をつけるはずだ。あんな乙女が、牛飼町の土に咲くとは、いつの世、どうした風に運ばれて、こぼれ咲いた胚子たね だろう?」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next