数日の後であった。右少弁時忠は、五条の朱鼻
の家の前に、牛車を止めた。だが、車から降りようとはしない。無精をきめて、車の中に座ったまま、 「ばんぼく、ばんぼく。・・・・伴卜ばんぼく
はおらるるか」 と、店へ向かって、怒鳴っている。 店には、雇人が、幾人も居た。けれど、 「ばんぼく」 が、どう間違って聞こえたのか、 「どなたのことで?」 ひとりが、車の下へ屈んで、訊たず
ねた。 「鼻殿のことじゃよ」 「あ。主人ですか」 朱鼻は、倉露地くらろじ
から、駆け出して来て、 「ようこそ。・・・・さ、どうぞ住居の方へ」 と、うながした。 「いや、今日は頼盛殿の家へ、招かれて行く途中だ。降りて話すのも面倒ゆえ、ここで聞いてくれい」 「お急ぎですか。して、なにか御用でも」 「おれではない、六波羅殿のお言伝ことず
てだ。御用向きは、何か知らぬが、明後日の灯ともしごろまでに、いつもの薔薇園しょうびえん
まで罷まか り出よとの仰せだった」 「ほ、何か、お叱りではございますまいか」 「そんな御気色みけしき
ではないから、心配するな。・・・・とはいえ、ばんぼく、そちは、そのように神妙そうに言うが、ほんとは、六波羅殿など、手のうちの玉だろう」 「ど、どう致しまして。あの恐こわ
い殿を、手玉になどとは、もってのほかな。・・・・」 「あははは」 と、時忠は、車の内を笑い揺すって、 「貴様が、どう申すか、ちょっと、からかってみたのだ。鼻に朱を吹いて、言い訳する様子は、しおらしいわ。いや、いいところがある」 「さては、おからかいに、お立ち寄りなされましたか」 「悪くとるな。措置の鼻を見ると、つい、戯ざ
れとうなるのだ。そちの妻は、寝ものがたりに、その鼻へ、なんと語るか」 「ちと御酒気とみえますな。お客人まろうど
として、臨まれぬ先から」 「まだ、正月の内。しかも、戦いくさ
はなし、近年ない春ではないか。・・・・お、思い出したが、おとといの夜、堀川からの文使いには、あいにく不在で、惜しいことをした。あの夜、こも時忠に、会わせたい人間とは、一体、たれなのか」 「お聞き及びでしょう、奥州の吉次と申す金売り商人あきゆうど
を」 「お。話には、聞いておる」 「ただの商用だけで、都へ来たとは思えぬふしがおりおり見えます。何か、秀衡殿の旨をおびて、都探みやこさぐ
りに来ているのではないかとも疑われ、いちど、彼の面つら
構えを、あなたにお目にかけばやと存じまして」 「そうか。・・・・その吉次は、まだ都にいるのか」 「いえ、明朝早く、宿を立ち、奥州路へ、立ち帰るそうです。蹴上口けあげぐち
まで、てまえも、見送るつもりですが」 「よし、おれも、見送ろう。・・・・が、おれは顔は見せぬぞ。知らぬ振りをしておれよ」 時忠は、そう言って、牛車の簾れん
を垂れた。 次の日の朝、朱鼻は、吉次の離京を、蹴上口で、見送っていた。 無数の男女が、おちこちにたたずんで、吉次の駒こま
の前へ寄って来ては、別れの言葉を交わしている。 「また、お目にかかります。一両年のうちには、必ずまた上のぼ
ってまいりますから」 今朝の吉次は、馬の背からではあるが、万遍なく、見送りの人々へ、あいそをまいて、どう見ても、商人あきゆうど
という物腰である。 「どこまで、お見送りしていただいても、かえって、名残は点きません。どうぞこの辺で、お引き揚げください。・・・・おさらば、では、ごきげんよう」 彼は、蹴上を登って行き、人びとも、やがて、ちりじりに、帰りかけた。 彼の下僕しもべ
や荷物の男が、一とかたまるとなって、はるか先のほうで待っていた。 ── すると、坂の下から、 「もしっ。旅のお人っ・・・・。お待ち下さい。旅のお人うっ」 と、息をきらして、吉次のあとを、追いかけて行く男があった。
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