〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/21 (火) おと (一)

数日の後であった。右少弁時忠は、五条の朱鼻あけはな の家の前に、牛車を止めた。だが、車から降りようとはしない。無精をきめて、車の中に座ったまま、
「ばんぼく、ばんぼく。・・・・伴卜ばんぼく はおらるるか」
と、店へ向かって、怒鳴っている。
店には、雇人が、幾人も居た。けれど、 「ばんぼく」 が、どう間違って聞こえたのか、
「どなたのことで?」
ひとりが、車の下へ屈んで、たず ねた。
「鼻殿のことじゃよ」
「あ。主人ですか」
朱鼻は、倉露地くらろじ から、駆け出して来て、
「ようこそ。・・・・さ、どうぞ住居の方へ」
と、うながした。
「いや、今日は頼盛殿の家へ、招かれて行く途中だ。降りて話すのも面倒ゆえ、ここで聞いてくれい」
「お急ぎですか。して、なにか御用でも」
「おれではない、六波羅殿のお言伝ことず てだ。御用向きは、何か知らぬが、明後日の灯ともしごろまでに、いつもの薔薇園しょうびえん までまか り出よとの仰せだった」
「ほ、何か、お叱りではございますまいか」
「そんな御気色みけしき ではないから、心配するな。・・・・とはいえ、ばんぼく、そちは、そのように神妙そうに言うが、ほんとは、六波羅殿など、手のうちの玉だろう」
「ど、どう致しまして。あのこわ い殿を、手玉になどとは、もってのほかな。・・・・」
「あははは」 と、時忠は、車の内を笑い揺すって、
「貴様が、どう申すか、ちょっと、からかってみたのだ。鼻に朱を吹いて、言い訳する様子は、しおらしいわ。いや、いいところがある」
「さては、おからかいに、お立ち寄りなされましたか」
「悪くとるな。措置の鼻を見ると、つい、 れとうなるのだ。そちの妻は、寝ものがたりに、その鼻へ、なんと語るか」
「ちと御酒気とみえますな。お客人まろうど として、臨まれぬ先から」
「まだ、正月の内。しかも、いくさ はなし、近年ない春ではないか。・・・・お、思い出したが、おとといの夜、堀川からの文使いには、あいにく不在で、惜しいことをした。あの夜、こも時忠に、会わせたい人間とは、一体、たれなのか」
「お聞き及びでしょう、奥州の吉次と申す金売り商人あきゆうど を」
「お。話には、聞いておる」
「ただの商用だけで、都へ来たとは思えぬふしがおりおり見えます。何か、秀衡殿の旨をおびて、都探みやこさぐ りに来ているのではないかとも疑われ、いちど、彼のつら 構えを、あなたにお目にかけばやと存じまして」
「そうか。・・・・その吉次は、まだ都にいるのか」
「いえ、明朝早く、宿を立ち、奥州路へ、立ち帰るそうです。蹴上口けあげぐち まで、てまえも、見送るつもりですが」
「よし、おれも、見送ろう。・・・・が、おれは顔は見せぬぞ。知らぬ振りをしておれよ」
時忠は、そう言って、牛車のれん を垂れた。
次の日の朝、朱鼻は、吉次の離京を、蹴上口で、見送っていた。
無数の男女が、おちこちにたたずんで、吉次のこま の前へ寄って来ては、別れの言葉を交わしている。
「また、お目にかかります。一両年のうちには、必ずまたのぼ ってまいりますから」
今朝の吉次は、馬の背からではあるが、万遍なく、見送りの人々へ、あいそをまいて、どう見ても、商人あきゆうど という物腰である。
「どこまで、お見送りしていただいても、かえって、名残は点きません。どうぞこの辺で、お引き揚げください。・・・・おさらば、では、ごきげんよう」
彼は、蹴上を登って行き、人びとも、やがて、ちりじりに、帰りかけた。
彼の下僕しもべ や荷物の男が、一とかたまるとなって、はるか先のほうで待っていた。
── すると、坂の下から、
「もしっ。旅のお人っ・・・・。お待ち下さい。旅のお人うっ」
と、息をきらして、吉次のあとを、追いかけて行く男があった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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