〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/21 (火) しら びょう まち (四)

「やあ、お待たせいたして、失礼を」
「いや、吉次どの、こちらこそ、せっかくの御用談のところを」
「なに、それはもうすみました。ようこそ、お越しくだされた。じつは、もう両三日中に、離京するつもりなので、ごあいあさつに出向こうと思っていたところでした。・・・・いや、よいおりに」
「── と、考えたので、急ではあるが、おひまなら、今日は一つ、お別れに、付き合っていただきたいと思うてな」
りましょう、が、この でも」
「なんの、お宿では、こっちの心づくしにはならんし、あなたの気も変りますまい。恐れ入るが、自分の馴染なじみ の家までお運びくださるまいか」
朱鼻は、たって彼を誘い、日ごろ、自分が行きつけの妓館へ、彼を案内した。
刀自とじ 、刀自。お客人まろうど であるぞ。いつものすみれ は、空いているか」
わが家のように、彼は立ち振舞って、奥へ通りながら、刀自というこの家の女主おんなあるじ を呼び立てた。
野の景を写した り水の風雅な庭を外に見ながら、二人は、席を分けて座った。朱鼻はすぐ、硯箱すずりばこ を引き寄せて、手紙を書き、
「これを、右少弁うしょうべん 殿のお屋敷まで、急いで、走り下僕しもべ に持たせてやれ」
と、使いを出させた。
長柄の酒つぎや、料理を乗せた折敷おしき 、杯などが、運ばれる。
この家にも、数人の白拍子はいるらしいが、彼女たちは、出ても来ない。酌にはべ るのは、ただの酌婦は、女童めわらべ だった。
名ある白拍子ともなれば、深窓の女性のように、めったに、姿を見せないのが普通である。貴紳の第宅から迎えでもうければ、初めて、供の男や女童めわらべ を召し連れて、客の席に臨む。
それも、至って、口かずは少なく、水干すいかん烏帽子えぼし 姿すがた で、舞を見せ、歌謡を歌うぐらいなものだ。
無味なといえば、無味に見る。しかし、従来の遊女あそびめ も、余りに安手になり、江口、神崎なども飽かれて来た時、これは、純粋な都の美女ばかりを って、まず技芸と、教養をみが かせ、気品のある社交の花として興った花柳界の新感覚派なのである。宮中にある采女うねめ や舞姫を、もっと、市井的しせいてき に洗練して、きりりと、あか抜けしたよそお いをさせたものが、白拍子だといってよい。
だから、その白拍子の家へ来て、酒を出させるほどな男は、いずれただの客ではない。投資者か、旦那だんな かである。朱鼻は、そのどちらか分からないが、とにかく、わがままをいいぬいて、
「玉垣や夕顔を連れて来い。綿木にも、来いといえ」
などと、いちいち名指しで、呼び寄せ、しきりに、吉次へのもてなしを、努めさせた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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