「やあ、お待たせいたして、失礼を」 「いや、吉次どの、こちらこそ、せっかくの御用談のところを」 「なに、それはもうすみました。ようこそ、お越しくだされた。じつは、もう両三日中に、離京するつもりなので、ごあいあさつに出向こうと思っていたところでした。・・・・いや、よいおりに」 「──
と、考えたので、急ではあるが、おひまなら、今日は一つ、お別れに、付き合っていただきたいと思うてな」 「飲
りましょう、が、この家や でも」 「なんの、お宿では、こっちの心づくしにはならんし、あなたの気も変りますまい。恐れ入るが、自分の馴染なじみ
の家までお運びくださるまいか」 朱鼻は、たって彼を誘い、日ごろ、自分が行きつけの妓館へ、彼を案内した。 「刀自とじ
、刀自。お客人まろうど であるぞ。いつもの菫すみれ
の間ま は、空いているか」 わが家のように、彼は立ち振舞って、奥へ通りながら、刀自というこの家の女主おんなあるじ
を呼び立てた。 野の景を写した遣や
り水の風雅な庭を外に見ながら、二人は、席を分けて座った。朱鼻はすぐ、硯箱すずりばこ
を引き寄せて、手紙を書き、 「これを、右少弁うしょうべん
殿のお屋敷まで、急いで、走り下僕しもべ
に持たせてやれ」 と、使いを出させた。 長柄の酒つぎや、料理を乗せた折敷おしき
、杯などが、運ばれる。 この家にも、数人の白拍子はいるらしいが、彼女たちは、出ても来ない。酌に侍はべ
るのは、ただの酌婦は、女童めわらべ
だった。 名ある白拍子ともなれば、深窓の女性のように、めったに、姿を見せないのが普通である。貴紳の第宅から迎えでもうければ、初めて、供の男や女童めわらべ
を召し連れて、客の席に臨む。 それも、至って、口かずは少なく、水干すいかん
、烏帽子えぼし 姿すがた
で、舞を見せ、歌謡を歌うぐらいなものだ。 無味なといえば、無味に見る。しかし、従来の遊女あそびめ
も、余りに安手になり、江口、神崎なども飽かれて来た時、これは、純粋な都の美女ばかりを選よ
って、まず技芸と、教養を研みが
かせ、気品のある社交の花として興った花柳界の新感覚派なのである。宮中にある采女うねめ
や舞姫を、もっと、市井的しせいてき
に洗練して、きりりと、あか抜けした粧よそお
いをさせたものが、白拍子だといってよい。 だから、その白拍子の家へ来て、酒を出させるほどな男は、いずれただの客ではない。投資者か、旦那だんな
かである。朱鼻は、そのどちらか分からないが、とにかく、わがままをいいぬいて、 「玉垣や夕顔を連れて来い。綿木にも、来いといえ」 などと、いちいち名指しで、呼び寄せ、しきりに、吉次へのもてなしを、努めさせた。
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