── が、次の日。 大炊御門の父君公能は、そっと訪
うて来た。そして、長い間、しめやかに、ただ二人だけで、母屋
の一室に、語っていた。 小侍従は、多子の泣き声を、そのとき聞いた。── それは、かの女の仕える御方が近衛帝の崩御に会われた時にも勝
るほどな世にも悲しそうなおん泣き声であった。とり乱したお姿さえ見えるような気がして、小侍従も物蔭に居たたまれなくなり、河原へ出て、もう霜を見ている野菊や芒
の中にうつ伏して、泣いた。 公能は、やがて、帰った。 小侍従がすぐ察していた通り、老父もついに、勅に伏し、また、頑強
に、おきき入れなかった後白河上皇も、清盛が、いく度となく、おとりなしに努めた結果、とうとう、お認めになってしまったのである。 ── そういううわさは、草むらを忍ぶ水のように、大宮御所に仕える女房たちの耳へは、どこからともなく、微妙に聞こえていたのであった。 よろこびか。かなしみか。 ここの御所は、さながら、
通夜 のような夜と、秋風の吹くばかりな日が、幾日も続いたが、ちまたのうわさは、もう一通りではない。 「二代の后
とは、さても、稀有 よ」 「太皇太后ノ宮の御入内とは」 と、ささやき合った。天地異変のようにいいあった。 “──
人、耳目ヲ驚カシ、世、以テ大イニ、傾
ケ申ス事アリケリ” と、書いている古典の短い記述は、よくそのときの時人
の驚きと、時評の声をあらわしている。じっさい、そのころの、かなり自由な思想を恋愛にはもっていた庶民も、天皇の余りなる御意志の自由さには、きもをつぶしたものらしい。 が、二条御自身は、生まれたままなお方である。望むままを望み、それを、天子の御意志で通したにすぎない。たれが、こういう一個の御性格を作ったか。たれでもない、それは諫
めたり、仰天した人びとではなかったか。 清盛は、苦笑していた。 多子の入内の日が来た。いや、夜が来た。 かの女は、幾日かを、涙に、泣き沈んでいたという。そして、 「どうして、晴れがましゅう、昼の道を、入内して行かれましょう。・・・・小夜
も半 ばをすぎた深夜に、車を遣
ってください」 かの女の希望として、通った意志は、それ一つであった。 |
“
── 先帝におくれまゐらせにし、久寿の秋の初め、同じ草原の露とも消え、家を出で、世を遁
れたりせば、かかる憂きことも聞かざらましを ──” |
|
という悔いだけが、かの女に許されている心の抵抗であった。 そして、やがてその日の夜も更け、月も傾けかけるころ
── “御車に扶 け乗せられさせ給ひける
──” とあるような、悲しげな曠
れの姿を、珠玉金銀でちりばめられた女車の内にかくして、大内山に入ったのであった。 しかし、麗景殿
に入って、皇后として立つや、多子は、よく天皇を扶
けられた。ひたすら二条帝の朝政を勧
め、粉黛 を誇るなく、潔
らかな生活にいそしまれた。そして、かりそめの歌、手習いにも、世に恥じるかのような、つつましさがあったので、いつか、一世の誹謗
も、声をひそめてしまったという。 また。──その後に、こんなことも、世間へ言い伝えられた。 紫宸殿
には、有名な聖賢の絵障子があるが、中殿
の御 一間
にも、巨勢 金岡
の画 いた、遠山に有明けの月の図がある。 その絵障子のはしに、今は、朧
ながら、亡き近衛帝が、お手習いの筆で、ふと、幼心
に、悪戯 書
きされた墨のあとが、残っていた。 皇后多子はどんなお気持で、それを見入られたことだろう。むかしを恋しと感じられたか、今を、女性の生きがいとして、さきの幼帝との御仲を、夢のごとく、振り返られたか、かの女の心に問うよすがもないが、 |
思ひきや 憂き身ながらに めぐり来て おなじ雲井の 月を見むとは |
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と、いう一首は、二代の后の御詠
であるとされている。 |
著:吉川
英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ |