〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/04/11 (水) 二 代 の きさき (四)

── が、次の日。
大炊御門の父君公能は、そっとおとの うて来た。そして、長い間、しめやかに、ただ二人だけで、母屋もや の一室に、語っていた。
小侍従は、多子の泣き声を、そのとき聞いた。── それは、かの女の仕える御方が近衛帝の崩御に会われた時にもまさ るほどな世にも悲しそうなおん泣き声であった。とり乱したお姿さえ見えるような気がして、小侍従も物蔭に居たたまれなくなり、河原へ出て、もう霜を見ている野菊やすすき の中にうつ伏して、泣いた。
公能は、やがて、帰った。
小侍従がすぐ察していた通り、老父もついに、勅に伏し、また、頑強がんきょう に、おきき入れなかった後白河上皇も、清盛が、いく度となく、おとりなしに努めた結果、とうとう、お認めになってしまったのである。
── そういううわさは、草むらを忍ぶ水のように、大宮御所に仕える女房たちの耳へは、どこからともなく、微妙に聞こえていたのであった。
よろこびか。かなしみか。
ここの御所は、さながら、 通夜つや のような夜と、秋風の吹くばかりな日が、幾日も続いたが、ちまたのうわさは、もう一通りではない。
「二代のきさき とは、さても、稀有けう よ」
「太皇太后ノ宮の御入内とは」
と、ささやき合った。天地異変のようにいいあった。
   “── 人、耳目ヲ驚カシ、世、以テ大イニ、カタム ケ申ス事アリケリ”
と、書いている古典の短い記述は、よくそのときの時人じじん の驚きと、時評の声をあらわしている。じっさい、そのころの、かなり自由な思想を恋愛にはもっていた庶民も、天皇の余りなる御意志の自由さには、きもをつぶしたものらしい。
が、二条御自身は、生まれたままなお方である。望むままを望み、それを、天子の御意志で通したにすぎない。たれが、こういう一個の御性格を作ったか。たれでもない、それはいさ めたり、仰天した人びとではなかったか。
清盛は、苦笑していた。
多子の入内の日が来た。いや、夜が来た。
かの女は、幾日かを、涙に、泣き沈んでいたという。そして、
「どうして、晴れがましゅう、昼の道を、入内して行かれましょう。・・・・小夜さよなか ばをすぎた深夜に、車を ってください」
かの女の希望として、通った意志は、それ一つであった。

“ ── 先帝におくれまゐらせにし、久寿の秋の初め、同じ草原の露とも消え、家を出で、世をのが れたりせば、かかる憂きことも聞かざらましを ──”
という悔いだけが、かの女に許されている心の抵抗であった。
そして、やがてその日の夜も更け、月も傾けかけるころ ── “御車にたす け乗せられさせ給ひける ──” とあるような、悲しげな れの姿を、珠玉金銀でちりばめられた女車の内にかくして、大内山に入ったのであった。
しかし、麗景殿れいけいでん に入って、皇后として立つや、多子は、よく天皇をたす けられた。ひたすら二条帝の朝政をすす め、粉黛ふんたい を誇るなく、きよ らかな生活にいそしまれた。そして、かりそめの歌、手習いにも、世に恥じるかのような、つつましさがあったので、いつか、一世の誹謗ひぼう も、声をひそめてしまったという。
また。──その後に、こんなことも、世間へ言い伝えられた。
紫宸殿ししんでん には、有名な聖賢の絵障子があるが、中殿ちゅうでんおん 一間ひとま にも、巨勢こせ 金岡かなおか いた、遠山に有明けの月の図がある。
その絵障子のはしに、今は、おぼろ ながら、亡き近衛帝が、お手習いの筆で、ふと、幼心おさなごころ に、悪戯いたずら きされた墨のあとが、残っていた。
皇后多子はどんなお気持で、それを見入られたことだろう。むかしを恋しと感じられたか、今を、女性の生きがいとして、さきの幼帝との御仲を、夢のごとく、振り返られたか、かの女の心に問うよすがもないが、
思ひきや 憂き身ながらに めぐり来て
   おなじ雲井の 月を見むとは
と、いう一首は、二代の后の御詠ぎょえい であるとされている。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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