〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/04/11 (水) 二 代 の きさき (一)

天皇は、中殿ちゅうでん (清涼殿)ひる御座おまし を、半ば、帳台でさえぎ られ、大床子だいしょうじ (机) にお ひじ をついて、おん後ろ向きに、もの思わしく、ほお づえしておられた。
清盛は、さっきから、その背へ向かって、長いこと、平伏していた。
・・・・天皇は、泣いていらっしゃる。しゅくしゅくと、すすり泣いていらっしゃる。
御引直衣おんひきのうし の真白な御衣ぎょい下襲したがさ ねのくれない がふるえておいで遊ばすし、透額すきびたい 透額すきびたい の御冠も、女性にょしょう かと見まごうびん のあたりへも、わななかせて、血のいろをのぼ せて、おいでになる。
秋深い内裏の昼の静けさは、まるで山林に在るような思いがする。── 東側の広庭をゆく “ 溝水かわみず ” とよぶ、きれいな流れの音が、御窓の外をせせらぎ、萩、桔梗ききょう 、すすきのむら にすだく昼の虫の音と一つになり、それは、自然な小夜曲のかなで でになっていた。
「わかった。── もうよい、清盛、もうよい、お退 がりっ」
天皇は、ふいに、かれの方をふり向いて、駄々っ子のように、仰った。
「はい」
と、答えながら、清盛はしかし、動きもしなかった。── 間をおいて、
「・・・・では、御得心な給わりましたか」
静かに、いうと、二条は、おん涙をぬぐわせられ、御顔を振った。
「上皇のお胸は、いま、おことからよく聞いた。それは分かった。・・・・が、ちん はべつに朕の考えを持っている」
「べつな叡慮えいりょ と仰せ遊ばすのは」
「おことに、告げてみても、どうもなるまい。おことも、ただ、朕をいさ めてばかりいる一人ではないか」
「いいえ、清盛はなお千々ちぢ に心をくだいております。けれど、つい昨夜も、上皇のお許しを得るにはいたりませんでした。さりとて、断念してはおりませぬ」
「そうか。・・・・公能は承知した。あとは、院の思し召お一つなのだ。── と、おもえばなお恨めしいぞ。清盛」
「はい」
「恋は、これ、朕の私事わたくしごと ではないか」
「そうです」
「人みな、恋はするのに、なぜひとり朕が恋しては、いけないのか。── 大勢して、わが恋を、はば めるのか」
「決して、陛下とて、恋をしてはならぬなどという法則はございません。万葉の歌のかずかずのうちには、幾多、お美しい恋も見られるではありませぬか」
「では、なぜ、上皇はじめ、おことたちは」
「あ、お待ちください。陛下、どうかげき することなく、 聡明そうめい に、そこをお聞きわけ給わりませ」
「どう、聞きわけよというか」
「院の御憂慮あそばすところは、決して、恋そのことではありません。── 二代のきさき という例は、わがちょう には、ないということです」
「いや、から にはある。則天そくてん 武后ぶこう は、唐の太宗たいそう の后、高宗皇帝の継母でおわせられたが、父太宗のみまかれた後、高宗の后に立たれたではないか。史上、明記されているではないか」
「それは、異朝の例でしょう」
「異朝というが、唐大陸とうたいりく からは、わが国へ、学問、文化、宗教、あらゆるものを、求めたではないか、なぜ、そのこと一つは、異朝の例だから悪いというのか」
二条は、蘭花らんか のおんまなじり らせて、仰るのであった。
玉顔は、激越なお胸のものを発して、耳朶じだ までを、 れた茱萸ぐみ のようにしていらっしゃる。そのお美しさといったらない。── かってのいくさ の前夜、黒戸御所くろどのごしょ から御車にかくれて宮門脱走をはか られたさい、源氏の金子十郎が、松明たいまつ をかざして見ながら、この君を、女性と見違えて、通してしまったということがあったが ── 清盛はいま、それを思い出して 「むりもない」 と、仰ぎ見とれるのであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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