〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/04/10 (火) てん のう こいたも う (三)

こういう御不和のかもされている時に ──この春以来 ── さらにまた、べつな難しい問題が、内在して来た。 例の ── 天皇二条が、お人もあろうに、太皇太后(たいこうたいごう) の多子を恋されて、なんとしても、入内(じゅだい) を求めてやまない ── あの、やっかい極まる問題が、なお、未解決のまま、秋も暮れんとしていたのである。 「いけない」 上皇は、初めから、お耳も、かされなかった。 「先々帝の后(きさき) を、今上の皇后として、入内せしめるなどという例が、異朝(いちょう) は知らず、わが朝(ちょう) にあったか」 という御意見である。 当然、重臣すべての、考えも、同じであった。── そういう畸形(きけい) な恋愛や結婚は、下層庶民のあいだにも、おそらく、不倫(ふりん) として、顰蹙(ひんしゅく) されるにきまっている。 「いわんや、天子たるお方においておや」 というのが、上卿(しょうけい) すべての者の憂慮するところでもあった。 けれど、天皇は、頑(がん) として、おあきらめにならない。 どうしても! と仰せられる。 果ては、直々(じきじき) 、多子の父、大徳寺公能(きみよし) を召されて、 「多子を、入内させよ」 と、おせがみになる。 いや、おことばは、勅である。 しかし、公能も、 「こればかりは・・・・」 と、世上の非難も恐れて、再三、固辞した。春も夏もこの秋も、門を閉じて一切顔を見せないほど、公能は、拝辞し通して来たのだった。 が、天皇は、お聞きわけなさらない。 十八歳という御年齢でもあるし、また 「およそ “勅” として、行われぬ事のあるべきや」 という強い先天的な御信念もおありなのだ。 「おことたちは、朕(ちん) のこの悩み、劫火(ごうか) の苦しみを、ただ見ておるのか。朕をして、懊悩(おうのう) に、死なしむるのか」 こういう仰せまで受けては、上卿たちも、いたずらに額を寄せて、密議と溜息ばかりを繰り返してもいられなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next