その滋子が、いつか上皇のおん胤
を宿して、産み月は十一月ごろと想定されているのである。おん帯の御式
を前に、女御 のに昇せられ、いまはかくれもない後白河の寵姫
として、内にも表にも、重んぜられている身であった。 はからずも、このことは、上皇にとっても、 (清盛と結び、清盛の武力を用うるに、よい方便) というかねてのお考えに合致していたし、また、清盛にとっても、 (思わざる吉事よ。一門の倖せ、これに過ぐるはない) と、ひそかに、大祝して、自然、
“隴 ヲ得テ蜀
ヲ望ム” の心を抱いたであろうことも、察するに難くない。 いったい、後白河は、天性、政治がお好きであった。信西入道をお用いになっていたころから、よく信西の言を容
れ、地方制度や、中央の古制に、改革の新味を示されたことは事実である。 その点、かっての仙洞、── 院政初期における白河法皇の御性格と、どこか似かようておいでだった。 現
仙洞の後白河もまた、院政政治に ── というよりも今の御地位に ── その嗜好
と自信を多分にお持ちになっていた。ということは、権勢欲にお強いろも言えるのである。 信西は亡
くも、将来は清盛を用いて、おおいにその御抱負を振わんとしておられる御容子が常にうかがわれる。 しかし、今のところ、院はまだ仮御所の状態だし、また信西始め、信西系の諸公卿は、ことごとく、あえなく果てたり流罪になったりdr、上皇の御身辺は、はなはだお
淋 しい。── 二条朝廷による諸政の進行や人事の裁断などを、見られるにつけ、何か、おだやかでない御心だった。 そうしたわびしいお気持から、上皇には、館
の桟敷 へ出られて、よく、街
の往来など見物しては、無聊
を慰めておられたりしたものだった。 ── と、それをすぐ、例の惟方
や経宗が、朝廷に告げ口して、二条天皇のおん名をかり、勅諚
と称して、御 桟敷
を鎖 してしまった。 このときの御立腹はひどかった、すぐ、清盛を召して、実相を糺
された。そして惟方、経宗を捕らえさせ、即日、二人を遠国へ追放したのであった。それでやっと事件は一応済んだように、その時は見えもした。けれど以来、二条天皇と後白河とのいん仲は、ことごとにおもしろくない対立を示して来た。 朝廷でよく用いられる者は、院からは排され、上皇が信任される臣は、朝廷へ出ると白眼視された。 |