〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-T』 〜 〜

2012/04/10 (火) てん のう こいたも う (一)

その日、徳大寺とくだいじ 公能きみよし の家へ臨んでいた伊通これみち基実もとざね清盛きよもり の三人の客は、やがて牛車くるま をつらねて、門を出て来た。
はまだ高く、あき けた空に、赤とんぼが黒い塵埃じんあい みたいに見える。
街の人びとは、このごろよく見かけtる大官たちの頻繁ひんぱん な往来に、また政変か、戦乱の前ぶれでもないかと、すぐ不安な眼をそばだてた。
伊通、基実は、まっすぐに、宮門へ向かって帰ったが、清盛の牛車だけは、途中でわかれた。かれはその足で、八条堀川の仮御所におられる後白河上皇をお訪ねしていた。
「清盛。どう せられたぞ。ここ数日も、ぶさたではなかったか」
上皇は、御座ぎょざ 近々ちかぢか と、かれを招き入れて、あいそをいわれた。ほかの伺候者と比べれば、格別なお親しさの表示である。
清盛も、ひとりの場合に限っては、上皇のおくつろぎに応じて、ほどよく儀礼も略し、肩のこらないお相手となることに、きめていた。
「いやもう、ほとほと多忙なのです。一参議のわたくしに過ぎぬはずなのに、何分、軍に関した政務といえば、各省からみな持って来ますし、去年、兵燹へいせん にかかった三条の仙洞せんどう 御所ごしょ も、年内には、 渡御とぎょ を仰がれるまでに、工事も進めたいやらで」
「おことの身はいま幾つあっても足りまい。さあれ、 滋子しげこさび しそうな。── 滋子のためにも、身二つとなるまでは、おりおり、姿を見せてやるがよい」
「そうですか。初のお妊娠みごもり なので、女御にょご にも、お気が張るのでございましょう。・・・・が、御順調に、月を追うておられますか」
「しごくすこ やかには見ゆる。奥へ通って、会うてやられるか」
「いえ、きょうは」
と、清盛は、あわてて御辞退した。
そして、ほかに帯びている緊急な秘命を、このうるわしいごきげんにたいして、どう口を切ったものかと、ちょっと思案顔であった。
上皇と清盛との間は、ここ一年足らずのうちに、君臣以上な密度をもって、急速な親しみを加えていた。
もともと、後白河は、少納言信西しんぜい の政治的手腕を高く買っておられたので、その信西と厚かった清盛も、自然、前々から、よく見てはおられた。
けれど、なんといっても、上皇の御信任が、特に清盛へ傾いて来たのは、平治の乱が境である。あの直後からといっていい。
「信西の き後は、この者こそ」
となすお心のものが、清盛にも、うつ っていた。
当時。── 三条烏丸の仙洞御所は焼失してしまったので、御造営の成るまで、上皇は、八条堀川を仮の御所としておられた。しかし、ここは、とうの 顕家あきいえ の館で、何かにつけて、御不便はいうまでもない。一時的ではあったが、あの戦乱前後、極度な狼狽ろうばい ぶりに、人びとは自分自分もことだけしか考えられなかった。後でこそ、おかしいようなものだが、上皇の御身辺さえ、朝夕、侍者じしゃ の手を欠くほどだった。
そのころ、滋子しげこ は、上皇の御給仕に、上がったのである。
彼女は、清盛の妻時子の、いちばん末の妹であった。清盛のはからいによるのはいうまでもない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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