西行は、急に、西住と会いたくなった。 会って、子弟としてでばく、ただの人間同士として、 (お許
を叱った別れたが、なんぞ知らん、自分もお許以上、愚かな迷いを持っていた) と、正直に、何もかも話してしまいたい気持だった。 (めったには、自分は修行したなどと、慢まん
じてはならない。二十年以上も山林に住み、一切俗念を断ったと思うなどが、そもそも誤りであった。人間の性根しょうこん
、本来の煩悩ぼんのう が、そんな修行の程度や意識で駆逐出来るもものではない。今夜はそれを学んだ・・・・) 西住に会ったら、そんなことも語ってみたい。 西住はどうしたろう。どこで自分を待つつもりで、あんな口約束を言ったのか。 そこで、思い出されるのは、大炊おおい
御門みかど の右大臣家 (徳大寺公能きみよし
) である。 西行には、旧主筋にあたりお方であり、かたがた、徳大寺家の侍のうちには、西住の旧友も二、三がいる。おそらく、そこではあるまいか。 「そうだ・・・・。久しぶりに右大臣家のご機嫌をも伺うて、またかつて、さしあげておいた自分の手紙を、どう御覧くだすったか、近ごろの御心境をも、うかがってみよう」 彼は、その日、旧主の徳大寺公能を訪ねてみる心になって、急に、ゆうね泊った東山の双林寺から大炊御門へ出かけて行った。 右大臣公能は、かつては、和歌にも多少心を寄せていたので、その詠草に西行が添削てんさく
を加えては、吉野の草庵から、幾度か、送り返していたことがある。 が、保元平時の世情とともに、公能の歌も、ふっと、絶えてしまったので、西行は、ある時、長い手紙を書いて、切に、公能へ出家をすすめた。危険なる名利や権勢の位置をなげうって、和歌の道に入り給えとすすめたのである。 けれど、返書はなかった。西行も、それきり幾年もごぶさたになっている。 「はて、あいにくな。・・・・きょうはなんぞお取り込みがあると見える」 彼は、その門前に立って、ふと、当惑顔をした。 |