わけて、忘れ得ないのは、妻子であろうこともいうまでもない。 彼の妻であった人は、その後、天野
の女人高野に、尼となって余生を送っているという。よそながら、彼は風の便りに聞いていた。けれど、なお、その妻との仲には、子どもがあった。西行が出家当時、五つであった愛らしい娘があった。 「今はもうよい人妻の年ごろよ。ああ、あの日の、幼き泣き声が、耳の底から聞こえて来る・・・・」 いくたびか、立ち止まっては、また歩き出した。そしてついに、暗い虫の音の中に、立ち呆ほ
けてしまった。 木も土も草も、道の辺の垣も、星までが、啼な
きすだいている気がしてくる。そしてそれがことごとく、二十年前に、彼が出家を決意した日 ── 父の袂たもと
にすがりついたわが娘こ の泣き声に
── 聞こえるのであった。 あのとき、彼は、 「ここで愛執あいしゅう
のきずなに晦くら み、発心ほっしん
の大事を止んでなろうか」 と、心を鬼にして、まだ五つでしかない娘を、縁から庭先へ蹴落けおと
とした。そして狂気のように屋敷を出てしまったのである。 「求道心ぐどうしん
のつよさよ」 「よくこそしたれ、さすがは西行ぞ」 などと人はいい称たた
えたが、なんの、西行自身は、そんなよろこびなど、味わえる余裕もなかった。妻子に与えた深刻な嘆きは、その百倍千倍もの深傷ふかで
となって、その後も、道ばたの童女や似た人を見ても、彼の心はすぐ傷いた
んだ。 いかに彼がその傷魂のうずきに悩み、今もなお、惨心の影を肉体から別離しきれないでいる人か、それは、今夜の彼を見てもわかる。もう、人も通らない都の闇を、彼は一体、何をうろうろしているのか。 父の足で、縁から蹴落とされた幼い者の悲痛な絶叫は、その子の父が来てみれば、二十年後の今も、消えてはいない。そこの家が焼け、土が焼け、秋草の茂りとなっても、一度、地底に沁し
み入った声は、父の影を見て、啾々しゅうしゅう
と今も啼きすだいて止まなかった。 それは、彼の痩や
せた影を吹き削けず り、心をふるえ哭な
かしめた。決してただの虫の音といえるものではない。二十年前の幼いたましいの悲鳴の雨である。 「・・・・若かった。・・・・ああなんであのような行為が、正しい求道とか、一筋な道心などといえるものか。若い父の感傷に過ぎない。・・・・今となれば恥かしいことだ。狂気沙汰ざた
だ。・・・・さてもその後は、どうして暮しているやら?」 彼は、無意識の人のように、ある家の籬まがき
を、巡り歩いていた。 父の彼が世に捨てた娘は、その後、冷泉殿れいぜいどの
の家従に養われ、数年前に、播磨はりま
のなにがしという絵師に嫁とつ
いでいると、さる人から聞いていた。 我をも忘れた姿で、いま、彼がさしのぞいている籬まがき
の内こそ、その絵師の家なのであった。 萩はぎ
、すすきを透とお して、灯影ほかげ
が見える。貧しいとも見えぬが、母屋もや
下屋しもや などもうかがわれる小世帯であった。良人であろう、若い男の声がする。妻であろう、やさしい女の声も聞こえる。いかにも、むつまじげである。橙色だいだいいろ
の灯影は夫婦仲のよさを証あか
し立てている。 「おお、幸福そうな・・・・」 彼は、頬ほお
をくだる涙に、顔じゅうを濡れ紙のようにした。人知れぬ年来の心がかりも、まずは、ほっとした気持だった。そして 「よそながら、姿でも ── 影なりとも見たいものだ」
と籬の外に立ちしびれていた。だが、やがて戸は閉た
てられてしまい、屋の内は、平和な眠りにはいったらしい。 「名乗らぬまでも、訪おとず
れて、一夜の宿を乞こ うてにようか、柴折しおり
を叩たた けば、紙燭をともして、今の女房が、顔を見せるであろうに」 かれは、迷いに迷った。だが、 「いや、待て」 と思い直したらしく、あわててそこから立ち去った。 去ること数十歩のうちに、彼は、あきらかな自分に返っていた。そして愕然がくぜん
と、今夜の自分を疑った。いや、自分にあいそをつかして、さめざめとひとり泣いた。 「── 会えた義理か。足蹴にして、子を、捨て去った父が、その子へ」 大きく吐息をついて、秋の夜空へ、つぶやいた。 「おろかよ。何しに自分はここへ来たのか。亡者のように彷徨さまよ
うたのか。・・・・もし今夜のような自分であることを、天野の尼院にある昔の妻が知ったなら、何ゆえ、妻に黒髪を切らさせ給えると恨むであろう。また、天龍で別れた西住がいたなら、この西行の表裏と欺瞞ぎまん
をさげすみ嘲わら うにちがいない。ああ恥かしい。・・・・まだまだ、西住を叱しか
れるような自分ではなかったのだ。おそらくは、人知れず、死ぬまで、こうした自分なのであろう。── あわれ浅ましい、似非えせ
出家しゅっけ よ」 |