都に来てからも、彼は多くに日を、洛外
に送っていた。 ある日は嵯峨さが
に、ある日は高尾に。 そして秋の一日、小倉山おぐらやま
のふもとに居ると聞いた、昔の歌の友を、訪ねなどした。 むかし賢門院の女房であった中納言ちゅうなごん
ノ局つぼね は、女院の亡な
き後、尼になって、ただ一人小倉山の草庵そうあん
に住んでいた。 |
草ふかく茂りあひて、行きかふ道も絶え、尾花、くず花の露しげく、軒もまがきも秋の月すみ渡り、まへは野辺、つまは山路なれば、虫の音うぁれに、哀猿あいゑん
の声、萩はぎ のうは風、枕まくら
にかよひ、松のあらし、ねやに訪れて、心すごき住家に侍はべ
り。 さて、かの局つぼね
に対面申したりし・・・・。 |
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彼自身の筆になる “撰集抄せんじゅうしょう
” のうちにもこう見えるほど、そこは人里を離れた淋さび
しい所で 「よくも女人ひとりで、こんな山に」 と、彼すら驚くほどであった。 それだけに、彼女は、西行の訪れを喜んで、ともども、なつかしさに眼をうるませた。 来こ
し方の思い出、世の変遷、かの友、かの君の消息など、語り尽きない夜であった。 そして、話の果ては、 「ともあれ、わたくしたちは、御仏の道を歩いておるお蔭で、貧しくても、こころ静かに、今宵もこうして無事を見合うておられます。無数の苦患くげん
のたましいをちまたに見るにつけ、ありがたいことではありまする」 と、なおなお道心を誓うことに尽きていた。 局の言葉によれば、当時、待賢門院のうちに、妍けん
を競うていた美しい人びとも、今はほとんど、その行方すら知れないとある。 わずかに、堀川ノ局、兵衛ひょうえ
ノ局、師そつ ノ局などの消息が分かっているだけで、その中では、師ノ局が、時めく六波羅の義弟おとと
、時忠というお人に嫁いでいるのが、まれな御出世であるぐらいなものですとも言う。 讃岐へ流された新院の君のことやら、近ごろでは、源氏の為義につづいて、義朝一族の悲惨なる末路だの、また信西入道や信頼のぶより
の最期さいご だの、つい話が、きのうの戦乱にわたると、二人の胸が痛み、夜風に肌はだ
もそそけ立って来て、 「もう、やめましょう。嘆いても、わたくしたちには、なんの力もない・・・・。ただ一念御仏に願いをかけるしかありません」 と、廂ひさし
の月を仰いで、いい合わせたように合掌した。そして、八重葎やえむぐら
に宿る露よりも儚はかな い人間の命を
── 自分もその一粒にすぎない身を ── そっと掻か
い抱くように、愛しみ合った。 中納言ノ局に会ってから数日の後である。 彼は、ゆくりもなく、二十年前に、自分だ住んでいた町の小路こうじ
を、何気なく通りかけた。 「おお、このあたりよ。・・・・我が家の跡は」 彼は、憮然ぶぜん
として、灯も見えない辺りの宵を見まわした。 保元の時か、つい去年の兵火に焼き払われたものか、彼の居た家ばかりでなく、付近の屋敷も、跡形はなく、秋草の乱れあっている中に、瓦礫がれき
と、小溝こみぞ の流れが、残っているだけであった。 |
これや見し 昔住みけむ 跡ならむ 蓬よもぎ
が露に 月のかかれる 古里は 見し世にもなく あせにけり いづち昔の 人行きにけん |
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心の底からおのずと奏かな
で鳴る小曲のように、彼は幾首かの歌を詠よ
んだ。作る気もなく口誦くちず
さまれた。 ありのままな、そして極めて自然な 「世の慣 ──」 といえるに過ぎない世間の一小景が、ここにもあったかと、彼は見ていた。 けれど。──
やがて黙々と秋の夜の町を、どこかへ、宿を求めて歩いて行く彼の影には、どこやらに、秋風に吹き削けず
られたような旅の痩や せが、目についた。 “・・・・いづち昔の人に行きけん” 彼の胸には、かずかずの知人が思い出されたいたに違いない。 |