西行法師はここ数年の間、都の移り変わりも見なかった。どこにいても、時局のうわさは聞くであろうが、その後、都のつちは踏んでいない。 ひところは、吉野に仮の庵
をむすび、修行のために、熊野や大峰へ分け入ったり、また伊勢の二見にも、しばらく住んでいたが、春早々、東海道を経て、遠く、宮城野みやぎの
から陸奥みちのく へかけての、歌の旅へ立っていた。 奥州の押領使おうりょうし
藤原秀衡ふじわらひでひら の舘たち
のある衣川ころもがわ も、尋ねた。 秀衡ひでひら
とは、今度会ったのが初めてであるが、秀衡の父基衡もとひら
とは、むかし京で一、二度会ったことがある。 その基衡はもう去年世を去っていた。 しかし秀衡も毎年、貢みつ
ぎ馬のことだの、摂関家への公用をもって、幾度となく上洛じょうらく
はしているので、たぶん都で西行のうわさも耳にしていたものであろう。西行は、かれの舘にひきとめられ、思わぬ知遇を受けたが、やかて、初秋とともに、秀衡とも別れて、衣川を去った。 出羽の国から、越後の村上を経て、木曾路の秋のさかりに逢い、やがて久しぶりに、彼が都へ近づいたのは、その年、永暦元年の九月であった。 急ぐ旅ではないが、ちょうど湖南から滋賀へ行く便船があったので、西行はそれへ乗った。そしてほかの乗合い客と一緒に、船が出るのを待つ間に、これはこの春、天龍川の渡しで別れたままの、西住さいじゅう
のことを思い出していた。 今度の旅行中、どうして、弟子の西住と、途中で袂たもと
を分かってしまったかというに、次のようなことがあったからである。 ── 東海道の天龍てんりゅう
の岸を、今し一艘いっそう の渡し舟が、離れようとしていた。 すると、諸国、どこでも多い、土地ところ
の地侍といったふうの男が、三人ほど、 「おうい、待てっ」 「船頭、待てっ」 と、手を振りながら駆けて来た。 しかし、客はもう一ぱいだし、流れは急なので、船頭が、乗せ渋ると、地侍たちは、もってのはか腹をたてて、 「おれたちは、ちと、急ぐ体だ。見渡せば、どうでもいい凡下ぼんげ
や、乞食坊主こじきぼうず なども、乗っているではないか」 と、暴言を吐きちらし、ふなべりに足を踏まえて、まず西行と西住のすがたに、眼をそそいだ。 旅をすれば今は、こういう暴民の多いのに驚かれる時代なのだ。いたる所に、暴言暴力の徒が、顔をきかしている。しかも彼らは、中央における武人の擡頭たいとう
を見て、近ごろ、なお勢いをふるい、国司と良民の中間に介在して、雑草のような繁殖力と生活力を持ち出した。それをまた、抜きも刈も出来ない制度の土壌だったのである。 西行には、分かりぬいている人種なので、そ知らぬ顔して、水をながめていた。 そのうちに、地侍の一人が、 「おい、乞食坊主、そこを立て」 と頭の上で言った。 西行は、なお、水を見ていた。 すると、かれらは、俄然がぜん
、悪態あくたい をあびせかけ
「用でもないやつが」 とか 「この穀ごく
つぶしが」 とか、まるで虫ケラのように人を見下して、 「降りろ、やい、降りねえか」 と、脅おど
すのだった。 |