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〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/17 (金) ぼん じょう のう きょう (二)

「・・・・常盤さま、常盤さま、あちらの別院で、少々、お休みくださるようにと申されています。もう、御納経もすましましたことゆえ」
と、一人の僧が、後ろから来て、告げていた。
彼女は、我に返ったように、
「ありがとうございます・・・・・」 と、ふと顧みて 「オ・・・・。あなたは、光厳様こうごんさま ではありませんか」
「光厳です。お久しゅうございました」
「あのときのお情けは ──」 と、常盤は向き直って、その僧の姿へ、掌を合わせた。
「光厳さま。いつまでも忘れはいたしません。わたくしの今の身は、あなたの会うのも、お恥ずかしい変りようをいたしましたが」
勿体もったい ない、お をいあげください。何をあなたは、そのように、御自身、恥じていらっしゃいますか。光厳の眼には、あなたこそ、子育観世音こそだてかんぜおん そのものに見えますのに」
また、べつな僧が、小走りに来て、常盤をうながした。
「ご案内いたします。常盤さま。どうぞこちらへ」
「いえいえ。道も遠うございますから、このままおいとま いたします」
「いや、それは、困ります。早くからお越し遊ばして、あちらで、あなたのご祈願のおすみになるのを、せっかく、お待ちしておられるのですから」
「・・・・どなたが?」
「きょうの施主のおん方です」
常盤はふしぎにたえない面持おもも ちである。施主とはたれであろう。今日の施主は、自分以外の者ではあり得ない。
が、僧たちは、ともあれと、 きたてた。
光厳がいる。常盤は、光厳に いていくつもりで、導かれた。長い廻廊かいろう や橋廊下を渡って、一室へ通った。
「・・・・あ、あなたは」
彼女は、白藤の花が、つと、揺られたように、立ちすくんだ。そして崩れるようにすわった。
「常盤。・・・・そんなに意外なのか」
池水の波紋や、若楓わかかえで木洩こも が、清盛の横顔を、常のものより、明るくしていた。
壬生みぶ へ、心を引かれながら、つい暇もなくて、あれ以来、逢えもせぬまに、つい夏になってしもうた。・・・・早いなあ、木々の移りは。そなたは、つつがなく暮していたか」
「はい・・・・」
なんとう女の感情なのであろうか。常盤は、自分でも理解がつかないなつ かしさやら、理由の知れない涙に、胸を、こみあげられていた。
清盛が彼女を見たとっさの眼にも、同じような複雑なものがあった。いつかの朧夜おぼろよ の思い出も、いっぱいにたたえていた。そして何か、少年じみた羞恥に身を硬くしたが、すぐいつもの彼にほど けていた。
「今日の施主が、おれとは思わなかったのは、むりもない。いわば らざるおせっかいだ。けれど常盤・・・・おれはおれのための、供養ともさせていただいたのだ。清盛のおろ かさ。男のばか。わかるかなあ、女のそなたに」
「何やら、お心の少しは・・・・」
「そうだ、少しでいい、少しでも分かってくれたら、ありがたい。── が、なおそのうえにもおれは愚かな考えを決めた。ここでは、申し難い。あとで、朱鼻からよう聞いてくれい」
明るく言いながらも、彼はふと眼を横に らした。涙に、青葉の影が映っている。
その日、ここの池亭ちてい で、わずかな語らいをしたきりで、二人は以後、その年の夏中も、いや翌年も翌々年も、またと会う日もなくなった。
常盤は、他家へ再縁した。もとより清盛の意志によってである。その年の秋に入ると、彼女は、壬生みぶ小館こやかた を引き払って、前大蔵卿さきのおおくらきょう 藤原長成の家へ、後添えとして、とつ いで行ったのである。
万端は、朱鼻の伴卜が、取り運んだ。
あれほど、一人の女の貞操に、やきもき、興味半分に、取沙汰とりざた しぬいた京雀きょうすずめ も、秋には、うわさも何も忘れていた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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