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〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/16 (木) ぼん じょう のう きょう (一)

梅雨つゆ もあがって、初蝉はつぜみ を聞くと、雲のたたずまいも、空の色も、はっきり、夏にはいった。
「どうだな、この辺の出水でみず は。・・・・大したこともなかったかね」
朱鼻が、やって来ると、彼はいつも門を通った前栽ぜんざい のあたりから、そこらに見かける召使たちへ、こう大声でいいちらすのが常であった。
蓬子よもぎこ は、泉殿の流れのすそで、洗濯物すすぎもの をしている下婢かひ たちに交じって、いくつもの雨傘あまがさ やら日傘をひろげて干し並べていた。
「おや、蓬子、たいへん見事な唐絵からえ がさ があるな。これは、まさか、おまえのではあるまい」
「ええ、わたくしのではありません。常磐さまのお傘です」
「常盤どのの?・・・・。ヘエ、どうして、常盤どのが、こんな洒落しゃれ唐絵からえ がさ をお持ちだろう。この小館から一歩もお出にならないお人が」
「たった今、西の京の、太宰だざいいち で買って来たんです。ところが、開いてみたら、こんなにかび が咲いているので、今、ほかのと一緒に、干していたところですの」
「ふうん、太宰ノ市で買ったのか。じゃあ、これをさして、どこぞへ、お出かけになるつもりか」
「百日の結願けちがん には、なんとしても、わたくしがお連れ申すつもりです。その結願に日が、あさってですから」
「どこへお連れ申すんだって」
「どこって、御存じでしょう。清水の子育観世音こそだてかんぜおん を」
この日、朱鼻は、奥へ通って、常盤とも、話し込んでいた。
一ころ、彼が心配しぬいた源氏の残党の影も、この築土に、昼夜、警固の兵を立ててから、まったく、怪しげなことは跡を絶ってしまった。朱鼻はそれを、兵の威力によるものと、今でも信じきっている。
で、近ごろはもう、その方の憂いは、忘れ果てていた。
ただ、欲をいえば、清盛はなお、あれきり車を向けていない。彼が清盛に深く取り入ろうとする手だてはくう を打っていた。そうした忠勤ぶりがむなしいままに、梅雨つゆ のカビに委せてあるうらみはある。
けれど、事実、清盛に通う暇のないことは、眼にも見ていた。いつかは、その御暇もできよう、お気も向こう。── 今では彼も気を長くそれを待っては、ときどき、異変はないかと、見まわりに来るだけのものだった。
しかし、このごろはもう残党の心配はなくなったにせよ、常盤が外出するということを、清盛に黙っていていいのかどうか。── 万一でもあればこれは自分の責任になる。
そう考えたので、彼はその日、
結願けちがん御参詣ごさんけい は、やむを得ますまい。そいうご気分におなりになっただけでも、てまえとしては、よろこばしいが、一応、六波羅様のおゆるしのあるまで、お待ち下さい。今明こんみょう のうちに、御内意を伺っておきますゆえ」
そう常盤に言って帰って行った。
次の日、返辞があった。
「さしつかえないとの、おゆるしです」
と、ある。
常盤は、蓬子一人を、連れただけで、その日、清水へまい った。
百日の間の写経を、子育観世音こそだてかんぜおん の宝前に納めて、
三人みたり の父なし子たちの行く末を、なお、御加護あらせ給え」
と、祈った。
祈願には、思いがけなく、数十人の僧が侍立し、一山の主なる僧はのこらず並んで読経した。香華こうげ やら供進ぐしん の物、また万燈の燈明など、眼にもあや になるばかりであった。
常盤は、称名の声と、香煙の中にぬかずいて、
三人みたり の子たちには、母もありません。母は義朝どのとの契りを抱いて、今生を終わっております。── ここにある常盤は、形だけの女です。地獄をさまよう女でしかありません。どんな苦患くげん を、この女におくだ しあっても、あわれ、父母のない三人みたり の子には、大慈だいじ 大悲だいひ のおん眼をそそいでくださいませ。武門源氏のなした宿業しゅくごうむく いが、どうか、幼き孤児たちへかかりませぬように」
と、念じつづけた。
正月の初め。── まだ冬風がここの床や内陣ないじん を、氷室ひむろ のようにしていたころ、牛若を抱き、今若、乙若をむしろの上に寝せつけて、ただ子たちの生命が保たれることのみを、一心、母の権化となって、念じていたあの時の自分を思うと、彼女は、涙があふれて、止めどもなかった。
その時の自分が ── 母になりきれていた女の生きがいが ── われながら、慕わしい、いじらしい。
読経がすみ、やがて納経の式も終わると、あとは、常盤一人が、そこにいた。いつまでも、このまま、ここにいたいように、彼女は、時を忘れていた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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