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〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/16 (木) 若 葉 わ く ら 葉 (五)

金王丸は、また迷った。
その銀の小像には、見覚えがある。在りし日の主人が、常に室に置いて、朝夕礼拝していたものだ。
迷いのせいか、常盤の姿が、そのまま観世音のように、彼には見えて来た。彼は、あわてて、眼の前に置かれた亡主義朝の手紙をひろげてみた。まぎれもない故主の筆 ── 最愛の常盤に宛てた敗軍の日の墨のあと ── 彼は一目見るとすぐ涙になって、読むのも、たどたどであった。
・・・・たとへ深山みやま に身はかくすとも、
乳子ちご らを守り育てよ
幾山川はへだつとも、わごぜ
恋しのおもひを、 わす らるべき、
いのちあだに失せ給ふなどのこと
ゆめ、あるまじう祈られ候ふ

“乳子らを守り育てよ”
また。
“いのちあだに せ給ふなどのこと、ゆめ、あるまじう祈られ候ふ”
「・・・・・」
金王丸は同じ文字のうえを、何十ぺんとなく、涙をこすっては見、嘆息しは読み、やがて突然、仔牛がほえるように泣き声をあげ始めた。
「も、申しようもない、不所存ないたしました。まったく、わたくしの、あ、浅慮あさはか な心得ちがい。・・・・お、おゆるしください」
ひたい を床にすりつけて、なお泣きじゃくりながら、言うのである。
「先ごろ、洛外のさる所で、文覚とよぶ僧侶そうりょ からわら われたことばが、今、思い出されました。弱い女性にょしょう のあなたよりも、はるかに、思慮も覚悟もいたらぬ、愚かな自分であることを、いま身に知って、余りにも悲しゅうございまする」
自分の嗚咽おえつ に、しばらく、身のおもて も沈めている ──。
「・・・・もし盲目な刃が、あなたを刺し参らせていたら、わたくしは、文覚以上、一生を真っ暗なものにしてしまったでしょう。・・・・ ああ危うかった。眼がさめて、今さら、おのが短慮の姿に、身ぶるいが出て来ます。このうえは、生涯の道を踏み直し、ひたすら、あなたの影身かげみ に添うて、よそながら、お力添えをして参ります。亡き殿のお筆に見えるとおり、あだには死なず、生き抜いてゆくことにいたしまする」
それからは、彼は、こうも言った。
義朝の最後の書状は、ぜひ、東国へ送って、心ある源氏の有縁うえん に見せておきたい。また、三通のおふみ は、それぞれ、時を待って、自分の手から和子君たちへお渡し申し上げる。── で、将来に使命を持って、生き闘うためにも、この一そく の書状は、ぜひ自分に預けて欲しいという願いであった。
もとより常盤がそれを拒む理由はなかった。彼が、彼女のせつない生き方を、理解してくれただけでもうれしかった。
「・・・・では」
金王丸は、すぐ ちかけた。
生命のもち方に、正しく眼ざめて、自分が見直されたとき、彼は、片時も、醜い姿を、ここに置いていられない気がして来た。ひとたび、何地いずち へかへ去って、心も姿も、新しく持ちかえたうえ、もっと落ち着いた気持で常盤に びたいと思った。
常盤はさきに立って、妻戸をあけ、外をのぞいたが、また閉めた。
「築土の外には、赤々と、垣守かきもり の兵のかが りが見えます。夜明けを待って出た方がよいのではありませんか」
「いえ、お案じには及びませぬ。大言を吐くようですが、金王丸には、烏天狗からすてんぐ にも似かようほどなわざ があります。こうして参れば、よも、見破られは致しません」
彼は、常盤の眼の前で偽装した。といっても、ふところに畳み入れていた幅広な黒布をひろげて、顔をくるみ、その余りを、つばさ のように、肩から半身へかけて包んだだけのことでしかない。
そして、ひらと、妻戸の外の勾欄こうらん から、坪のやみへ、走り去ると、もうやみ夜の烏のいうに、見えなくなった。
と、思ううち。
西側の築土のみねに、黒い人影らしいものが立ち、こなたの灯影にむかって、なにかもう一度、名残を告げているふうでもあった。
常盤も、紙燭の手を、少しあげて、それにこたえた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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