常盤はその宵、女童
の蓬子よもぎこ から、今日までのことを、つぶさに、聞いていた。 魔魅まみ
のような人間が、夜となく昼となく、殺意を抱いて徘徊はいかい
しているのです ── と聞かされても、彼女は、 (そう・・・・。そんなに幾日も前から?) と、つぶやく程度で、眉まゆ
を、そよ風が撫な でたほどにも、気色けしき
を変えなかった。 なお、蓬子が、戦慄せんりつ
しながら、今朝、竹林の竹の小枝に結び付けてあったその金王丸の ── 朱鼻にも見せた例の紙片を ── 常盤に示して、おそろしい金王丸の一念を告げても、彼女は、 (そういう者が、この身を狙うというのも、みんな自ら招いていることです。・・・・亡な
き頭殿こうのとの (義朝)
に、良く仕えたお人ほど、常盤の今を、歯がみしていることでしょう。無理もない) と、つぶやいて、むしろ、自分へ殺意をふくむ者へ、心からの同感を寄せるような口吻くちぶり
でさえあった。 それは自分を偽るのでもなく、また、他へいう虚飾でもないに違いない。── 今、彼女はその怖おそ
るべき一念の塊かたま りみたいな人影を、灯影の末に見ているのである。 「・・・・」 「・・・・」 長い沈黙の間を、いあたずらに、燭台の灯ばかりがまたたいていた。しかし、彼女のどこにも、悪びれた風はない。長やかな黒髪を袿衣うちぎ
の横へすべらせたまま、幾重にも色の襲かさ
ねられたえりもとへ真白な下あごを埋めて、夜とともに、地の底へ、思い沈んでゆくように、果てなく、さしうつ向いているのであった。 金王丸は、自己のうちで、心の夜叉やしゃ
を、叱咤しった していた。 なぜ刺さないか。なぜ、跳び寄って、ひと突きに、殺してしまわないのか
── と。 だが。 どうしても、手は、意志の命に、従わなかった。 むしろ、こうして、じっと対しておればおるほど、彼女の姿が、あやしいまで、傷いた
ましく見えてくる。 彼は何より憤怒している ── 無貞操な女、栄花のためには、前さき
に良人も、その仲に生な した子も、昨日の事として顧かえり
みない女 ── と断言できるようなものは、常盤の姿の、どこにも見出せなかった。 かえって、感じ取れたのは、焚た
き香こう の艶えん
なのとは違う銀の仏像の前にある香炉こうろ
の匂にお いであった。また、涙のあとをしのばせる袿衣の肩の痩や
せであった。 「・・・・金王丸。以前、そなたはよく頭殿こうのとの
のお供をしては、常盤の宿へも、通うて見えたことがありましたね」 やがて、彼女の低い声に、金王丸は、突然、猛気をよびさまされた夜叉のように、眼の光と、ひざとを、ぐっと前へ進めた。 「おっ・・・・おうっ。あなたは、それを、今でも確しか
と、覚えていらっしゃいますか」 「どうして忘れることができましょう」 「ああ、毒婦。それが、平気で仰っしゃられるあなたは、よほど、生まれつきな悪女です。毒の花です」 「いくののしってくれました。わたくしは、たれかに、責められたかった。金王丸、御仏みほとけ
に代わって、もっともっと、わたくしを、ののしってください、はずかしめて給われ」 「本心ですか」 「偽りではありません。わたくしは、そなたの刃から、逃げようとしていないでしょう」 「そうだ、お覚悟は、見える。しかし、それは今になっての悔いでしょうが」 「いえ、初めも今も、後悔はしていない。自分の心で選んだ道を来たのですから」 「なに。これが、思った通りの道ですと」 金王丸は、太刀の革鞘かわざや
を、わなわな握りしめた。右の手の肱ひじ
さえはね上げれば、いつでも、太刀の切っ先は、彼女の体のどこへでも届く姿勢にある。 「ええ。これしか女の・・・・いいえ常盤の道はなかったのです。とはいえ、恥かしや・・・・。はからずも、頭殿こうのとの
の郎党に巡り会うて」 と、彼女は消えも入りたい容子ようす
であったが、しかし、泣き崩れはしなかった。呵責かしゃく
のまえに、耐えている面おも ざしである。 「──
もし、そなたたち、源氏の者が、この常盤を斬って、無念のやり場となるならば、斬って給た
も、討って、無念を癒して給う。・・・逃げも悲しみもせぬほどに」 彼女はそう言うと、常に用意していたものらしく、三通の手紙と、そして亡き義朝からの彼女へ宛てた最後の書状とを一つにして、 「情けには、一つの頼みを、聞きとどけて給われ。これは、今若、乙若、鞍馬の牛若などへ、それぞれ認したた
めておいた母が遺物かたみ の筆です。・・・・
またべつの一書は、頭殿こうのとの
のお筆、それは、源氏の人々のうち、たれか、志こころざし
のかたいお人にあずけて欲しい。ほかには、思い残すこともない」 常盤は、静かに、背を向けて、厨子棚ずしだな
の聖観世音の小さい銀像へ、掌て
を合わせた。 いつでもという姿である。 |