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〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/15 (水) 若 葉 わ く ら 葉 (四)

常盤はその宵、女童めわらべ蓬子よもぎこ から、今日までのことを、つぶさに、聞いていた。
魔魅まみ のような人間が、夜となく昼となく、殺意を抱いて徘徊はいかい しているのです ── と聞かされても、彼女は、
(そう・・・・。そんなに幾日も前から?)
と、つぶやく程度で、まゆ を、そよ風が でたほどにも、気色けしき を変えなかった。
なお、蓬子が、戦慄せんりつ しながら、今朝、竹林の竹の小枝に結び付けてあったその金王丸の ── 朱鼻にも見せた例の紙片を ── 常盤に示して、おそろしい金王丸の一念を告げても、彼女は、
(そういう者が、この身を狙うというのも、みんな自ら招いていることです。・・・・頭殿こうのとの (義朝) に、良く仕えたお人ほど、常盤の今を、歯がみしていることでしょう。無理もない)
と、つぶやいて、むしろ、自分へ殺意をふくむ者へ、心からの同感を寄せるような口吻くちぶり でさえあった。
それは自分を偽るのでもなく、また、他へいう虚飾でもないに違いない。── 今、彼女はそのおそ るべき一念のかたま りみたいな人影を、灯影の末に見ているのである。
「・・・・」
「・・・・」
長い沈黙の間を、いあたずらに、燭台の灯ばかりがまたたいていた。しかし、彼女のどこにも、悪びれた風はない。長やかな黒髪を袿衣うちぎ の横へすべらせたまま、幾重にも色のかさ ねられたえりもとへ真白な下あごを埋めて、夜とともに、地の底へ、思い沈んでゆくように、果てなく、さしうつ向いているのであった。
金王丸は、自己のうちで、心の夜叉やしゃ を、叱咤しった していた。
なぜ刺さないか。なぜ、跳び寄って、ひと突きに、殺してしまわないのか ── と。
だが。
どうしても、手は、意志の命に、従わなかった。
むしろ、こうして、じっと対しておればおるほど、彼女の姿が、あやしいまで、いた ましく見えてくる。
彼は何より憤怒している ── 無貞操な女、栄花のためには、さき に良人も、その仲に した子も、昨日の事としてかえり みない女 ── と断言できるようなものは、常盤の姿の、どこにも見出せなかった。
かえって、感じ取れたのは、こうえん なのとは違う銀の仏像の前にある香炉こうろにお いであった。また、涙のあとをしのばせる袿衣の肩の せであった。
「・・・・金王丸。以前、そなたはよく頭殿こうのとの のお供をしては、常盤の宿へも、通うて見えたことがありましたね」
やがて、彼女の低い声に、金王丸は、突然、猛気をよびさまされた夜叉のように、眼の光と、ひざとを、ぐっと前へ進めた。
「おっ・・・・おうっ。あなたは、それを、今でもしか と、覚えていらっしゃいますか」
「どうして忘れることができましょう」
「ああ、毒婦。それが、平気で仰っしゃられるあなたは、よほど、生まれつきな悪女です。毒の花です」
「いくののしってくれました。わたくしは、たれかに、責められたかった。金王丸、御仏みほとけ に代わって、もっともっと、わたくしを、ののしってください、はずかしめて給われ」
「本心ですか」
「偽りではありません。わたくしは、そなたの刃から、逃げようとしていないでしょう」
「そうだ、お覚悟は、見える。しかし、それは今になっての悔いでしょうが」
「いえ、初めも今も、後悔はしていない。自分の心で選んだ道を来たのですから」
「なに。これが、思った通りの道ですと」
金王丸は、太刀の革鞘かわざや を、わなわな握りしめた。右の手のひじ さえはね上げれば、いつでも、太刀の切っ先は、彼女の体のどこへでも届く姿勢にある。
「ええ。これしか女の・・・・いいえ常盤の道はなかったのです。とはいえ、恥かしや・・・・。はからずも、頭殿こうのとの の郎党に巡り会うて」
と、彼女は消えも入りたい容子ようす であったが、しかし、泣き崩れはしなかった。呵責かしゃく のまえに、耐えているおも ざしである。
「── もし、そなたたち、源氏の者が、この常盤を斬って、無念のやり場となるならば、斬って も、討って、無念を癒して給う。・・・逃げも悲しみもせぬほどに」
彼女はそう言うと、常に用意していたものらしく、三通の手紙と、そして亡き義朝からの彼女へ宛てた最後の書状とを一つにして、
「情けには、一つの頼みを、聞きとどけて給われ。これは、今若、乙若、鞍馬の牛若などへ、それぞれしたた めておいた母が遺物かたみ の筆です。・・・・ またべつの一書は、頭殿こうのとの のお筆、それは、源氏の人々のうち、たれか、こころざし のかたいお人にあずけて欲しい。ほかには、思い残すこともない」
常盤は、静かに、背を向けて、厨子棚ずしだな の聖観世音の小さい銀像へ、 を合わせた。
いつでもという姿である。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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