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〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/15 (水) 若 葉 わ く ら 葉 (三)

欄を越えて、板縁をはい、妻戸の外へ、そっと、身をかがめる。
── 妻戸は開かない。
しかし開けようとすれば容易である。カギのかけ所は、きまっている。小刀でクリ抜くことも出来るし、物音をおか すならば、力をこめて押せばいい。
「そうだ」
彼は、後者の方法を選んだ。たとえ、家人けにん が眼をさましたり、築土ついじ の外から兵士が駆けつけて来ようとも、その間に、常盤を指してしまいさえすれば目的はすむ。あとの自分は問題でない。もとより先に った悪源太義平のあとを追って逝く覚悟である。
すると、意外にも、彼が行為を起こすよりも先に、室内から、
「・・・・だれです」
という女の声がした。
あきらかに、それは常盤の はいである。
小蔀こじとみ に灯影がゆらいだ。こっちへ、 って来る跫音あしおと を感じると、なぜともなく、金王丸は、妻戸のそばを、跳び退いていた。
戸があいた。そして、紙燭ししょく をかかげた常盤の白い顔が、外をさしのぞいて、
「そこの男は、もしや金王丸ではないか」
と、言った。
金王丸は、おもわず、えっ? と全身の驚きで、それに答えてしまった。いや答えるなどという平調なものではない。打ちひし がれたように居竦いすく んだまま、あとの言葉も出なかった。
しかし常盤は、彼の影から、何の恐怖も疑惑もうけてはいない。多少、深夜のしじまをはばかる様子は見えるが、静かに、
「金王丸。・・・・そうでしょう。あの義朝どのの侍童じどう だった男でしょう。さ、こちらへ、おはいり。・・・・もし番の兵に気づかれるといけないから」
と、さしまねいた。
そして常盤が、壁代かべしろ の蔭へかくれたので、金王丸も、隙間風すきまかぜ のように、すばやく中へ入って、部屋の隅に、要心ぶかく、かが まりこんだ。
まだ、切燈台きりとうだい の灯は、夜更けも知らぬようにとも っている。
そばの文机ふみづくえ には、日課の写経がしかけてあった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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