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〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/15 (水) 若 葉 わ く ら 葉 (二)

ここの泉殿いずみどの母屋もや の間の橋廊下を、空からかさ のようにおおっている二本の大樹がる。長い横枝は小坪 (中庭) の上にまで伸び、ちょうど五月の雨季を前にして、去年の病葉わくらば と、季節の若葉とを、いっぱいに茂らせている古怪なしい の大木だった。
彼はこの木の上にいた。
いうまでもなく、さきに悪源太とも死に別れた源氏の生き残り渋谷しぶや 金王丸こんのうまる である。
「あぶなかった・・・・」
と、昼からの辛抱を、ほっと、吐息と一緒に思う。
樹上は、細かい梢が、籠目かごめ交叉こうさ しているので、身を隠しているには、安全だし、座っていることも出来、横にもたれていることも出来る。
万一、伊藤五の兵が、登って来たら、横枝から屋根へ んで ── と、つい今し方まで、身構えていたが、いつか人数は引き揚げていた。ただ築土ついじ の裏表に、夜のかが りが、ほのかに見られるだけである。
「おれは、意志が弱い。口ほどもなく、心は」
と彼は、自分をののしった。
「こうなる前に、機会は何度もあったのに、なぜ、常盤どのを、今日までも、生かしておいたのか。何しに、ここへ忍んでいるのか」
彼は、自分で自分のここ数日にわたる行動が、じつは、今もよく思い出せないほど、頭が、一途なものに、凝り固まっていた。それ以外に、自分を観る心を失っていた。
けれど、討手に追い上げられて、高い木の上に、じっと、隠れているうちに、彼はそれを取り戻していた。
「そうだ、何も、迷うことはない。常盤どのを刺して、自分は死ぬ。それでいいのだ。・・・・何を、昨日まで、迷っていたのか」
夜が更け沈むのを待つあいだ、彼は、何十ぺんも自分へ向かって言い聞かせた。そして、こうなった以上、今夜こそ、目的を果たそう、明日は待てないと、決意した。
真夜半ごろ、彼は、蜘蛛くも のように、椎の木を降りた。
夜ごと、灯のともる寝殿しんでん の奥まった一室を彼はよく知っている。そこに起居している常盤の姿を板縁の下からさしのぞいたことすらあるのだ。跳びかかって一突きに刺せそうな機会もあった。けれど、刺せない、近づけもしない、むなしく、いつも、たじろいでしまったのである。
旧主という観念がさまたげるのだろうか。いや、旧主の君をはずかしめる常盤どのなればこそ、その貞操に対して責める刃ではないか。何をおそ れるのだ、何をはばか るのだ、と彼はやがて自分をケシかけるように、彼女の部屋をうかがった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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