〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/15 (水) つる (二)

遠くに、彼の姿を見つけて、上達部かんだちべ のひとりが、小走りに、廊を伝わって来た。
五条の伴卜ばんぼく が、お目通りを賜りたいと、兵衛府ひょうえのふ に取次ぎを うて、校書殿きょうしょでん に控えているというのである。
「はて、鼻が何しに」
と、清盛はいぶかった。
宮門まで うて来るのは、よほどなことにちがいない。ふつうでは、通しもされないはずだがと、校書殿の一室へ行ってみると、伊藤五景綱は、一緒にいた。
場所がらは、よくわきまえている。鼻は、平伏して、 れ口ひとつ言い出さない。ただ、常盤の身に、非常な危険が迫っていることだけを、ありのまま告げた。そして彼の指示を仰ぐのであった。
「金王丸とは、悪源太とともに潜んで、平家へ恨みをはか っていた小冠者よな。危うい危うい。それは捨ておけぬ。── 景綱」
「はい」
「わぬしの部下から、たれぞ、心ききたる者をやり、壬生の辺りを、囲ませい。まず、道々をふさ ぎ、網の魚を追うように、常盤の家へせばめてゆく。そしてさいごに、手づかみに捕れ」
「おと、やすきことかと、思われまする」
「小冠者ひとりよ」 と、笑い去って ── 「朱鼻、預かり者に、怪我さすな。万一でもあるときは、そちのとが だぞ」
朱鼻は、なんべんとなく叩頭こうとう して、ひき退がった。
伊藤五の兵、二百人ほどが、その日、たそがれを前に、ひとつの計画をもって、壬生方面へ、わかれて行った。
何が行われるかも、往来の者さえ気づかれないほど、遠くから、広い地域をとり巻いた。そして、大路小路、森、やぶ 、社寺、畦道あぜみち までを、一歩一歩に縮めて行き、やがて常盤の小館こやかた を、兵の輪の中へ、鳥のようにとりかおんだ。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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