〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/14 (火)  すずめ (二)

蓬子が、きのう、例の麻鳥の家で、小冠者の名のみは人に言うな、という条件のもとに、文覚から教えられたというのは、次のようなこと ごとであった。
(小冠者は、源氏の残党で、悪源太追補のときに姿を消した金王丸こんのうまる にちがいないこと)
(金王丸は、いつか、常磐の生命を取ると、悪源太に誓っていたこと)
(近ごろ、追補のゆるみに乗じて、常磐の住居をうかがっている。そして時には、坪の内まで身を潜めてみるが、さすが、旧主にあたるお人であり、常磐の起居の様を見ては、つい殺意もにぶろう。しかし、悪源太への誓いもあるので、幽鬼のように、迷っているものに違いない)
それらのことを、文覚は、まるで眼で見てでもいるように言って、
(しかし、心配はない。わしの禁厭まじない を施せば、幽鬼は、きっと退散する)
と、一通の手紙を書き、それを細く折って、彼女に、手渡した。そして、
(これを、常磐どのの坪の木か、築土の裏の淋しいかきそで か、どこにてもあれ、人の歩かぬ所の、人目だつ所に、ゆわ い付けておかれい)
とも、教えた。
なお文覚が言うには、
(そうして、このふみ が、夜のうちに くなったら、それきり、常磐どのの生命をうかがう者も、どこかへ、かき消えたと思うて、もう安心したがよい。── とはいえ、不測ふそくわざわ いということもあるから、寸前までも、油断はしないように)
と、あった。
そんなことから、話が長くなって、きのうは、紙屋川の土橋を渡るまで、文覚に送って来てもらい、そこで彼女は、紀州へ立つ文覚と、当分の間の別れを告げて、帰ったのである。
そして、壬生みぶ の小館へ帰ると、蓬子は、常磐にも、たれにも黙って、文覚から言われた通りに文覚の手紙を、坪の北にある裏築土うらついじ孟宗竹もうそうだけ の下枝へ結いつけておいた。
そこは、下屋しもや り水や泉殿の通い水が一つになって、竹林の外へ吐かれてゆくため、築土の下がくり抜いてある。もし、濡れるのさえいとわなけてば、人がはいこめないことはなかった。そして母屋もやたい からも、ずいぶん離れていて、たけのこ を掘る時でもなければ、めったに、下部しもべ たちも歩かない竹林でもあった。
「・・・・で、ゆうべは、わたくし、眠りもしませんでした。それが・・・・ くなっているやら、まだ、今朝もあるやらと、ひと晩中、そればかり思って」
蓬子は、ここまで、話して来ながら、まだ胸の中には、不安を残し、何か語り足らない顔つきだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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