〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/14 (火)  すずめ (一)

五月である。卯月うづき すぎると、朝々、山城の盆地は霧が深くなる。
五条のあけ はな の店の前に、戸が開く前から、蓬子よもぎこ はたたずんでいた。
「おや、どうしたのだ、こんなに早くに?」
朱鼻は、まだ寝衣ねまき 姿である。住居の縁へ出て来て、いぶかり顔に、彼女の頭の先から、朝露に汚れている草履の足もとまでながめた。
「朝早くから、すみません。じつは、あの、大変なことを聞いたものですから」
「おまえが来ると、いつも、ろくなことではないな。なんだい、今朝は」
「きのう、いつものように、清水へ御代参に行ったかえみち のことなんです」
「まだ行っているのかい。ご苦労に」
「すると、文覚もんがく さんが、いつもわたくしがまい るのを知っているものですから、三年坂で待っていてくれました」
「文覚さん? あの、いがぐり坊主の文覚かい」
「ええ、夏中から秋ごろまで、また那智なち ごも りに、紀州へ御修行に行らっしゃるんですって」
「おまえは、いつからあんな宿なし僧と、親しいのか。よしたがいいぞ。むかし、六波羅様とも同輩だったなどと言いふらして、清盛様のことを、良く言わないそうだが」
「けれど、いいお人です。わたくしたちには、やさしくて」
「まあ、よけいなことは、どうでもいい。その文覚が、どうしたのだ」
「紀州へ行くと、当分、会えないからと言って、麻鳥さんという、お友達の家へ、一緒に遊びに寄ったんです。つい、いろいろな話が出たものですから、わたくしも、いつか紙屋川のなぎさ で見た血刀を洗っていた小冠者の話しをいたしました。あの、牛飼の富蔵が首を斬られたことなんかも。・・・・」
「ふむ。そして」
「すると、文覚さんが、それは大変だ、用心しなければいけない。次には、常磐どのに、凶事があるぞ・・・・ と、預言者みたいに仰っしゃるんです」
「どういうわけだ、それは」
「牛飼の富蔵を斬ったのは、小冠者のほんとの目的ではなく、たまたま、源氏の恩を忘れて、和子わこ ぎみ たちを六波羅へ売った悪党が、小館こやかた へやって来たので、ことのついでに、首を取ったのだろうと、文覚さんは言うのです」
「はてな。じゃあ、あの時、その小冠者は、舘の内のどこかに、いたということになるじゃないか」
「そうです。文覚さんのお考えでは、日ごと、常磐さまの築土ついじ の内や、舘のまわりに、姿を潜めている者だろうと・・・・」
「ば、ばかなことをいえ」
「でも、そうに違いないと、その小冠者の名まで、はっきり仰っしゃいましたもの」
「なんという者だ。その名は」
「申されません」
「なに」
「人には言うなと、かたく、文覚さんから口止めされました。名をば知られて、六波羅衆の追補にかかっては不愍ふびん だと」
「いったいおまえは、文覚の召使か、常磐どのの女童めわらべ なのか、何しに、ここへやって来たのだ」
「まあ、おしまいまで、聞いてください。そんなにがみがみ仰っしゃらないで」
蓬子も、今朝は、一生懸命な口ぶりである。なかなか朱鼻のあしらいにも負けていない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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