五月である。卯月
すぎると、朝々、山城の盆地は霧が深くなる。 五条の朱あけ
鼻はな の店の前に、戸が開く前から、蓬子よもぎこ
はたたずんでいた。 「おや、どうしたのだ、こんなに早くに?」 朱鼻は、まだ寝衣ねまき
姿である。住居の縁へ出て来て、いぶかり顔に、彼女の頭の先から、朝露に汚れている草履の足もとまでながめた。 「朝早くから、すみません。じつは、あの、大変なことを聞いたものですから」 「おまえが来ると、いつも、ろくなことではないな。なんだい、今朝は」 「きのう、いつものように、清水へ御代参に行った帰かえ
り途みち のことなんです」 「まだ行っているのかい。ご苦労に」 「すると、文覚もんがく
さんが、いつもわたくしが詣まい
るのを知っているものですから、三年坂で待っていてくれました」 「文覚さん? あの、いがぐり坊主の文覚かい」 「ええ、夏中から秋ごろまで、また那智なち
籠ごも りに、紀州へ御修行に行らっしゃるんですって」 「おまえは、いつからあんな宿なし僧と、親しいのか。よしたがいいぞ。むかし、六波羅様とも同輩だったなどと言いふらして、清盛様のことを、良く言わないそうだが」 「けれど、いいお人です。わたくしたちには、やさしくて」 「まあ、よけいなことは、どうでもいい。その文覚が、どうしたのだ」 「紀州へ行くと、当分、会えないからと言って、麻鳥さんという、お友達の家へ、一緒に遊びに寄ったんです。つい、いろいろな話が出たものですから、わたくしも、いつか紙屋川の渚なぎさ
で見た血刀を洗っていた小冠者の話しをいたしました。あの、牛飼の富蔵が首を斬られたことなんかも。・・・・」 「ふむ。そして」 「すると、文覚さんが、それは大変だ、用心しなければいけない。次には、常磐どのに、凶事があるぞ・・・・
と、預言者みたいに仰っしゃるんです」 「どういうわけだ、それは」 「牛飼の富蔵を斬ったのは、小冠者のほんとの目的ではなく、たまたま、源氏の恩を忘れて、和子わこ
君ぎみ たちを六波羅へ売った悪党が、小館こやかた
へやって来たので、ことのついでに、首を取ったのだろうと、文覚さんは言うのです」 「はてな。じゃあ、あの時、その小冠者は、舘の内のどこかに、いたということになるじゃないか」 「そうです。文覚さんのお考えでは、日ごと、常磐さまの築土ついじ
の内や、舘のまわりに、姿を潜めている者だろうと・・・・」 「ば、ばかなことをいえ」 「でも、そうに違いないと、その小冠者の名まで、はっきり仰っしゃいましたもの」 「なんという者だ。その名は」 「申されません」 「なに」 「人には言うなと、かたく、文覚さんから口止めされました。名をば知られて、六波羅衆の追補にかかっては不愍ふびん
だと」 「いったいおまえは、文覚の召使か、常磐どのの女童めわらべ
なのか、何しに、ここへやって来たのだ」 「まあ、おしまいまで、聞いてください。そんなにがみがみ仰っしゃらないで」 蓬子も、今朝は、一生懸命な口ぶりである。なかなか朱鼻のあしらいにも負けていない。
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