〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/13 (月) 男 性 四 十 夢 多 し (三)

その五条の伴卜は、数日の後、六波羅へ出かけていた。
顔見知りの侍所の者へ、そで の下をつかって、河原門からそっと入れてもらったらしい。清盛が薔薇園しょうびえん逍遥しょうよう する姿を待ち、坪の木蔭にかが まって、
「殿。お目にかかりに参りました」
と、おそ る畏る声をかけた。
清盛は、ちょっと、眼をみはって、
「や。鼻か」
と、立ちどまった。そしてなお、
「大きなひき でもあるかと思うたら、鼻ではないか。なぜ近ごろは、その鼻を見せぬのだ。ぶさたなやつめ」
と、しかった。
「これは、意外な、いや心外な、仰せを承るものです」
と、鼻は負けずに抗議した。
「なに心外だと。はははは」
「笑いごとではございません。てまえが、御台盤所みだいばんどころ さまから、出入停止しゅつにゅうちょうじ を申しつけられたことは、殿にも御存知でございましょうが」
「それが、なんだと申すのか」
「御勘気をうけた身が、どうして、参られましょう。そも御勘気も、たれゆえですか」
「たわけよ。なんじの勘当などは、何も、六波羅の政令ではない。時子が申し付けたなら、女房門の出入りだけを遠慮すればよいではないか」
「でも、殿の仰せ付けも同じぞと、きびしくおしかりをこうむりましたので」
「いつ、おれがいうた。女とて、言いたいことは、言いたかろうによ。かしこまって、時子の眼にさえ触れなければよかろうが。それを、ひと月あまりも打ち絶えたまま、常磐のその後の消息も、あれきり聞かせに来ぬなどとは、なんたる怠慢ぞ。頼むならぬ腑抜ふぬ けではある」
「や。まことに、それは不覚。そう御寛大とは、合点がてん もいたしかねまして」
「日ごろの横着者にも似げないことだ。そして、常磐は無事でいるのか。その後、いたつき もせず、つつがなく、暮しているか」
鼻をしかるのは、 れ交じりでも、常磐の様子を く言葉のうち には、どこか、真情がこもっていた。
「まず、話もある。あれまで、まか れ」
清盛は後ろに彼を連れて、一亭の内にはいった。
そして、常磐の起居を、つぶさに問うて、せめてみずから慰めているふうである。そうした彼の容子ようす から察しても、彼が常磐に顔を見せないのは、夜ごと通うにもまさる思いをおさえているに違いない。
その事情も、夫人の時子の監視がうるさいだけではなく、宮中の内秘、政治軍事の多端などが、彼に、寸閑の私生活もゆるさないことが、全部であり、ほんとらしい。
一例をいえば。
老臣、筑後守家貞が、日向ひゅうが の乱を平定に赴いて、つい数日前に、凱旋がいせん している。
家貞は、多くの捕虜をらつ して帰って来たが、その主将、日向ひゅうが 太郎たろう 通良みちよし らを、取り調べた結果、清盛は、非常に大きな啓蒙けいもう をうけたのである。
それは、彼らの持っている、海外知識であった。
中華大陸との交易こうえき である。
また、宋文化そうぶんか のすばらしい魅力でもあった。
清盛は、たちまち、ある一つの 「夢」 にとらわれ出した。架空な幻想ではない。事業である。必ず可能と信じられる構想の芽が生まれていたのである。
(やろう。やらねばならない、この国の物心を富ますために)
想像がふくらむ。
おもしろくて堪らなくなる。
すると、彼は、幾人もの側室のねや へも、夫人の時子のもとへも、まるで無沙汰になってしまう。
常磐のことすらも、頭の隅に、置いておく程度の女性に過ぎなくなる。
そして、創造欲にふける。事業化の夢に熱中する。その燃焼に、一時、もろもろの色欲像は、忘却されているのであった。
痴情の面もある彼である。情熱にうすい彼ではない。しかし、四十台の自分の中に、彼は、より以上にも自分を捕える別な欲望があることを発見していた。
つまり清盛とは、そういう一つの型の男性であったといえる。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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