〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/13 (月) 男 性 四 十 夢 多 し (二)

清盛と常磐との、爾後じご の問題である。
いや、後始末といってもよい。
何しろ、あれきりなのだ。一切を朱鼻にまかせたまま、清盛は、たった一ぺん、家だけを見に、ちょっと立ち寄ったきりである。常磐が移って来てからは、まだ一度もここの新居へ、車を向けていなかった。
(いったい、どういうお気紛きまぐ れか)
朱鼻には、気が知れない。不平でならない、また、不安にもたえなかった。
御台盤所みだいばんどころ の時子からは、出入り止めを言い渡され、一方の清盛にも、うとうしくされたのでは、立つ瀬はないし、かれとして、大誤算である。去年の大乱に、 るか るかを、自分の戦争だとし、一商人のぶん をも越え、いのちも財も、平家方へ けて来たのが、すべて水泡すいほう に帰してしまう。 ぎ込んだ投資は、これからそろそろものをいおうという機運へ来たところだ。こんな問題につまづいてはと、彼の打算では、はる の推移を見てさえ、毎日、気が気でない焦燥しょうそう られるのである。
(お立ち寄りを待っていたのでは、いつの日のことやら知れぬ。いちど、清盛様にお会い申さでは──)
と、彼は今、そんな思案に沈んでいたのだ。しかし、出入り止めをこうむった身では、以前のように、六波羅の門を通るわけにも行かない。どうして、清盛に会うか。それがまた、一と屈託なのである。
ふと、灯に顔を上げて、蓬子や下部しもべ たちを見て、たずねた。
「奥の、常磐どのは、こよい、何しておいでか?」
「いつものように、御写経らしゅうございます」
「・・・・そうか。夜でもあるまいし、では、そっとこのまま帰ろう。くれぐれ、血ぐさい話しは、お聞かせしないがいいぞ」
鼻は、小坪の縁から、履物はきもの をはいて、外へ出たが、ふと、中門の透垣すいがき から、奥殿おくどの灯明ほあか りをのぞいていた。
机に寄って写経か何かしている他念ない常磐の姿が ごしに見える。それは訪う人もない所に咲いたまま行く春をひとりいた んでいるやみ夜の白牡丹しろぼたん のように勿体もったい ないものに、彼には見えた。
「ああ、可惜あたら なものだ。こんな名花を、孤閨こけい において」
鼻はふと、勝手に好色な想像を描いた。もし、この名花が、時子夫人の牽制けんせい のきびしい余り、清盛もさすが通うにははばかられるものなら、いっそ、このまま自分が引き継いでも悪くはない。それならそれで、いくらかはつぐな いがつく。そんな打算的欲情に思いふける朱鼻だった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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