〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/13 (月) 男 性 四 十 夢 多 し (一)

「たれだ、牛飼どのを斬ったのであろう? あんな早業はやわざ をしたのはたれか」
朱鼻あけはな にも、わからない。常盤の家の召使もみな、天狗てんぐ の仕業でもあろうかと、おののきあうだけであった。
「人ならば、よほどな手練者よ。三太刀とは使っていない。おまけに、富蔵の死骸しがい はあるに、首は せている。・・・・こんな不気味な晩はないぞ」
ずいぶん物怖ものお じは知らない朱鼻も、やがて小館こやかた の一室に、息をひそめたまま、燭台しょくだい の灯のかさを見つめて考え込んだ。やがて、あたりの下部しもべ たちにむかい、
「・・・・そうだ、これは黙っていた方がいい。常磐どのへは、お聞かせするな」
と、かたく口止めした。
蓬子よもぎこ が帰って来たのは、それから間もない後だった。彼女もここにすわるとすぐ、また一つの不気味を語り出した。帰る途中怪しい者に出逢であ ったというのである。
「── 紙屋川まで来たときです。土橋の下に水鳥でもいるような音がしました。何気なくのぞいて見たら、なぎさ に人がかが みこんで、そばに人間の首を置き、血刀を洗っているではありませんか。おもわず、あ──と立ちすく んでしまうと、なぎさ の人影も、下からわたくしをじっとにら みつけるんです。青い夕月のせいか、そのおもてこわ さといったら・・・・夢中で走って来ましたけど。まだなかなか眼から消えもしません」
「それは、どんな身装みなり の男?」
狩衣かりぎぬ に、武者むしゃ 烏帽子えぼし して」
「武者か。・・・・年は」
「まだ、小冠者こかじゃ で、二十歳はたち とも見えぬほどな」
「はて? なお分からなくなったぞ」
朱鼻は大げさに腕をくんだ。いよいよ思い当たるふしもない。
蓬子は、自分が眼で見た小冠者が、牛飼の富蔵をあや めた通り魔のような早業の下手人であったのだと、人びとから語られて、
「え、あのおじさんが、たれかに殺されましたか」
と、疑うように、また、余りな驚きに、ひとみ をぼんやりさせてしまった。
そして、その眸からほお へ、ぽと、と涙をみせているので、朋輩の下部しもべ たちは、いぶかしく思って、
「蓬子、おまえは、何を悲しむのか。わたくしたちのおあるじ にとっては、伯父に当るお人には違いないが、あんな悪党は死んでくれた方が、世間のためじゃ。常磐さまも、いっそ、ほっとなさるであろうに、何もおまえが、泣くことはなかろうに」
と、言った。
すると、蓬子は、かぶりを振って、こう答えた。
「いいえ。悪党のために、泣いたのではありません。常磐さまのご代参で、日々、清水へおまいりしていますから、きっと今日の難儀は、観世音がお救いくだすったにちがいない。紙屋川で見た小冠者は、もしや、観世音の御化身ごけしん ではなかったかしら?・・・・そう考えたら、なにかは知らず、涙がこぼれて来たのです」
彼女の解釈は、そのころの人びとが、何か奇蹟と感じるとき、すぐ帰着してゆく考え方の一つだった。
だから、蓬子が純な乙女のまぶた をとじて、たなごころ を胸にあわせ、静かに、観世音菩薩かんぜおんぼさつ御名みな を唱えると、その常識にならうように、朋輩たちも、ともども、 を合わせて、唱和し始めた。
だが、朱鼻だけは、腕ぐみを、解きもしない。
彼は彼で、べつな屈託くったく がある。広大な観音力でもままにならないことを、彼自身、知っていた。だから屈託するのでもあった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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