「たれだ、牛飼どのを斬ったのであろう?
あんな早業 をしたのはたれか」 朱鼻あけはな
にも、わからない。常盤の家の召使もみな、天狗てんぐ
の仕業でもあろうかと、おののきあうだけであった。 「人ならば、よほどな手練者よ。三太刀とは使っていない。おまけに、富蔵の死骸しがい
はあるに、首は失う せている。・・・・こんな不気味な晩はないぞ」 ずいぶん物怖ものお
じは知らない朱鼻も、やがて小館こやかた
の一室に、息をひそめたまま、燭台しょくだい
の灯のかさを見つめて考え込んだ。やがて、あたりの下部しもべ
たちにむかい、 「・・・・そうだ、これは黙っていた方がいい。常磐どのへは、お聞かせするな」 と、かたく口止めした。 蓬子よもぎこ
が帰って来たのは、それから間もない後だった。彼女もここにすわるとすぐ、また一つの不気味を語り出した。帰る途中怪しい者に出逢であ
ったというのである。 「── 紙屋川まで来たときです。土橋の下に水鳥でもいるような音がしました。何気なくのぞいて見たら、渚なぎさ
に人が屈かが みこんで、そばに人間の首を置き、血刀を洗っているではありませんか。おもわず、あ──と立ち竦すく
んでしまうと、渚なぎさ の人影も、下からわたくしをじっと睨にら
みつけるんです。青い夕月のせいか、その面おもて
の恐こわ さといったら・・・・夢中で走って来ましたけど。まだなかなか眼から消えもしません」 「それは、どんな身装みなり
の男?」 狩衣かりぎぬ
に、武者むしゃ 烏帽子えぼし
して」 「武者か。・・・・年は」 「まだ、小冠者こかじゃ
で、二十歳はたち とも見えぬほどな」 「はて?
なお分からなくなったぞ」 朱鼻は大げさに腕をくんだ。いよいよ思い当たるふしもない。 蓬子は、自分が眼で見た小冠者が、牛飼の富蔵を殺あや
めた通り魔のような早業の下手人であったのだと、人びとから語られて、 「え、あのおじさんが、たれかに殺されましたか」 と、疑うように、また、余りな驚きに、眸ひとみ
をぼんやりさせてしまった。 そして、その眸から頬ほお
へ、ぽと、と涙をみせているので、朋輩の下部しもべ
たちは、いぶかしく思って、 「蓬子、おまえは、何を悲しむのか。わたくしたちのお主あるじ
にとっては、伯父に当るお人には違いないが、あんな悪党は死んでくれた方が、世間のためじゃ。常磐さまも、いっそ、ほっとなさるであろうに、何もおまえが、泣くことはなかろうに」 と、言った。 すると、蓬子は、かぶりを振って、こう答えた。 「いいえ。悪党のために、泣いたのではありません。常磐さまのご代参で、日々、清水へおまいりしていますから、きっと今日の難儀は、観世音がお救いくだすったにちがいない。紙屋川で見た小冠者は、もしや、観世音の御化身ごけしん
ではなかったかしら?・・・・そう考えたら、なにかは知らず、涙がこぼれて来たのです」 彼女の解釈は、そのころの人びとが、何か奇蹟と感じるとき、すぐ帰着してゆく考え方の一つだった。 だから、蓬子が純な乙女の瞼まぶた
をとじて、掌たなごころ を胸にあわせ、静かに、観世音菩薩かんぜおんぼさつ
の御名みな を唱えると、その常識にならうように、朋輩たちも、ともども、掌て
を合わせて、唱和し始めた。 だが、朱鼻だけは、腕ぐみを、解きもしない。 彼は彼で、べつな屈託くったく
がある。広大な観音力でもままにならないことを、彼自身、知っていた。だから屈託するのでもあった。 |