〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/12 (日) あく ぞうさい (二)

次の市の日が近づいた。金が る。富蔵は、壬生みぶ のあたりへ、出かけて行った。
巨椋おぐら伯父おじ だがのう。・・・・なつかしさに、訪ねて来た。そっと、奥の御方おんかた に、伝えてくれい」
常磐の小館こやかた へ、のっそり、入って行き、彼は前栽さんざい の横の下屋しもや へ、そう告げていた。
下部しもべ の者は、承って、
「お待ちくださいまし」
伯父と名乗ってきたことなので、とのかく、かしず きの人にまで通さねばなるまいかと、細殿を奥に消えた。
その間に、小坪づたいに、菖蒲しょうぶ の切り花を手にした蓬子が、ふと下屋しもや の前へ来て、
「あれっ」
と、くちなわ でも見たような叫びをもらした。
「おう、蓬子か。たいそう、別嬪べっぴん になったな。・・・・今奥へ取次ぎを頼んだところだが、おまえからも、常磐へいってくんな。巨椋おぐら の伯父さんが、会いに来たとな。やれやれ、閑静な、よいお住居だ」
「いません。・・・・伯父さま。いらっしゃいませんよ」
「・・・・なにが」
「常磐さまは。・・・・ここには」
「おいおい、おれを、ごま化して、帰す気か」
「でも、おいでにならないものは」
「この、味噌みそ っかすめ。なにを、いいやがる。御主人の伯父様だぞ。下にいて、お迎えでもしやがれ」
ぐいと、みらみつけられると、蓬子は、ひとすく みに、ふるえ上った。
さきの下部と、老女などが出て来て、
「常磐さまは、先ごろから、ずっと、御病中でいらっしゃいますから」
と、柔らかに、断った。
「ほ、病気か。よいおりへ来た。どんなやまい か、見舞うてゆきたい。ぜひ、会わでは、心残りというもの」
富蔵は、てこでも動く気配ではない。下屋の縁に、腰をすえ、いや味を並べたり、しいて、肉親を誇張したり、日の暮れるのも知らないような面構えだ。
蓬子は、いなくなっていた。跣足はだし でどこかへ駆けて行ったきりである。
文覚さんへ、とすぐ思ったが、その文覚の住居が分からない。麻鳥さんをとも考えたが、麻鳥では、とても、牛飼の富蔵には、かな わない気がした。
で。── 五条の伴卜ばんぼく の店へ、急を知らせに行ったのだ、朱鼻あけはな は、ちょうど居合わせて、
「それは、たいへんだ。常磐どのこそ、さぞ、おののいておいでだろう」
馬に乗って、壬生みぶ へ馳せた。
門前に、馬のいなないきを聞くと。富蔵はさすがに、ぎょっとして、腰を浮かせた。
朱鼻は、富蔵の影を見ると、まるで日ごろに扱いつけているます算盤そろばん を見るのと同じに、無表情のまま、
「もし、ちょっと。・・・・そこでは、なんだから、ちょっと、こっちへ」
と、物蔭へ手招きした。
そして、かえって、どぎまぎしている富蔵の手へ、金を握らせて、その肩を叩き、
「およしなさいよ、おじさん、野暮な真似はね。── 金が欲しいなら金、酒が飲みたいなら酒。これからは、五条の伴卜の店へ来てください。そう、話の分からないわたくしではないつもりだ」
と、べつに、おかしなこともあるまいに、げらげら笑った。
位負くらいま けがしたものだろうか。富蔵は、
「いや、何もね、可愛い姪っ子に、耳づらいことを聞かす気じゃありませんが、六波羅も、ちと、ひど過ぎまさあ。いや六波羅様もね、あんまりでしょうが」
てれ隠しをいいながら、ふところへ、金をねじこむと、さっそくに帰ってしまった。
ところが、その富蔵は、時をの家の門を、百歩も歩かないうちに、妙な叫び声を上げて、首と胴とを、別にしてしまった。
「あ。・・・・なんだろう?」
鼻は、まだ、門のほとりにいたので、驚いて駆け出して見た。
道ばたの の花が白かった。どこにも、人影ひとつ見えない。壬生みぶ の農家の屋根が、宵月の下に、青く濡れ沈んでいるだけである。
「おういっ、松明たいまつ をつけて来い、紙燭ししょく でもいい。はやく」
首のない富蔵の死骸しがい のそばから、朱鼻の声が、下部たちを、呼びぬいた。やがて、そこらを、火にかざして見ると、ぎらぎらした液体が、道の石にも、卯の花にも染まっていた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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