〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/12 (日) あく ぞうさい (一)

間伸まの びのした牛の啼き声が、ときどきする。
昼、牛市のあった牧の一隅いちぐう である。もう夜は深いが、牝牛めうし を恋う雄牛おうし はまだ寝つかない。
ときどき、ばしゃばしゃと飛沫しぶ尿いばり の音が、あたりの闇をなお くしてゆく。
一つの小屋には、牛ではない、人間のかたまりが、博奕ばくち をしていた。赤々とそこだけに明りが差し、樹脂の油煙と、ぜに の音と、ごえ やら酒のにおいが、 れている。
牛飼や博労ばくろう などに、商人あきゆうど らしい顔も交じり、辻博奕つじばくち とはケタの違う大きな賭けをしているらしい。どの顔も、眼玉が顔から突き出している。さい の目に、精神を込め、ひきあぶら のような汗を額に、にじませて、一点を めあっている。
「ああ、まだやってやがる。おもしろくもねえ。いい加減に、かたがつかねえのか」
巨椋おぐら の富蔵は、板壁の下に、木枕きまくら をかって、寝転んでいた。負けて脱落した者の、やけくそな姿である。
むっくり起きて、また、そこらの酒瓶さかがめ を、つかみ寄せ、
「どうして、こう、することなすこと、今年はヘマになるんだろう。ふしぎだな、ここごろは」
つぶやいて、ひとりで、がぶがぶ飲み始めた。酒びたしになったまむし のように、首を振ったり、身をもがいたり、また、太股ふともも をぴしゃぴしゃたた いて、つかの間も、内心のもがきを、じっと抑止していることがない。
「常磐がケチのつき始めだ」
それを考え出すのである。六波羅への密訴は、まったく、ばかを見てしまった。褒美ほうび の大金どころか、一銭もくれはしなかった。
あげくに長い間、囚人めしうど あつかいに監禁され、やっと出されたと思えば、問罪所の主判代時忠から 「犬畜生に劣るやつ」 と、ののしられた。そして、門の外で、犬這いぬば いにさせられ、その尻を、下部しもべ どもの割り竹で、 「これが、褒美ほうび ぞ」 と、百も二百も打ち叩かれた。まったく、命からがらであった。
「相手が、平家でなければ、どんな喧嘩けんか でもしてやるんだが、清盛ときては、歯が立たねえ」
彼は、よく、そんな鬱憤うっぷん を、ぼやいて、仲間を笑わせた。
しかし、人が笑うと、勃然ぼつぜん と、腹が立った。うわさでは、その清盛に囲われて、常磐も今、都のどこかで、栄花えいが な暮らしをしているという。
酒、女、ばくち、彼は田舎に持っていた牧の牛を、わずかのうちに、減らして行った。今日も、もう最後の牛を数頭、市へ引いて来て、金に換え、前からの損をいちどに取り返そうとしたのが、逆に、裸になってしまったのである。
「次の市の日まで、いくらか貸せよ」
と言っても、このごろの彼の自暴やけ ぶりと、すでに持ち牛もないのを知っている仲間は、ろくな返辞も与えない。
「そう、ばかにするない。おれのめい は、常磐御前だぞ。牛は持たなくても、容貌きりょう しの姪は持っている。一貫や二貫のぜに が、なんだというんだ」
彼は、大言を吐いた。仲間は、背中でクスクス笑っていた。
「見ていろ、次の市には、取り返してやるから」 と、富蔵は、ひとりで怒って、また、木枕へ、ころがった。
眼がさめたのは翌日で、もう人間も賽コロもどこかへ影を潜めていた。
顔じゅうの蠅を追って、起き直り、やがて牧の の下へ出て、大あくびをした。
「やいやい、かめ 。きのうの返辞は、どうしたんだ。駄賃だちん もくれておいたのに」
亀と呼ばれた牧夫は、牛部屋から出て来て、何か、いいわけしていた。── きのう、富蔵に頼まれて、蓬子と麻鳥のあとを尾行つけ て行ったあのうす汚い男だった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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