〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/11 (土) めぐみず (六)

(同じ楽器を持って、人を楽しませるなら、もう、堂上人のただ れた宴楽に して、浅ましい思いを忍んでいるよりは、青空の下で、貧しくても、心からよろこ んでくれるちまた の人びとの中で、笛も吹きたい、かね や鼓も打ってみたい)
傀儡師くぐつし 仲間なかま に入ったのは、その念願を果たそうために違いなかった。しかし、そうした心の延長は、やがて、町に音楽を売るだけではすまなくなって ── なお一層、彼自身がいまいったような ── 隣り近所から世の貧しい病人たちへの、 “もののあわれ” へ拡がって行くものと思われる。
「いいことだよ。それはぜひやったがいい。朝廷には、典薬頭てんやくのかみ もい、貴神の門には、医師くすし もすぐまか るが、貧乏人が病にかかれば、死を待つだけだ。薬を服んで死ねる病人は百人に一人もおるまい」
「そうです。穴ぐらのような家々をのぞけば、きっとたれかが寝ています。寝たら絶望だけです。食えない家ですと、まだ息のある病人を山や河原へ捨てにさえ行くのですから」
「わしは、おまえに、負けるかも知れぬ」
「それは、どういう意味でございましょうか」
「いや、世を愛する心においてだ。わしは、今日、ひそかに恥じたよ」
「そんなことはありません。なにしろわたくしは、伶人れいじん の家に生まれたので、笙、笛、ひちりき、和琴わごん などは、人いちばいまな びましたが、学問は浅うございます。ですから、難解な医書から、医術を読み習うにも、まことに難渋なんじゅう しております」
「独学では、ちと、無理だ。わしがよい師を引き合わせよう。師について、教えを え」
「ありがたいことですが、そのような面倒を見てくださるお人がございましょうか」
「あるよ。もと典薬寮てんやくりょう の医博士、和気わけの 百川もろかわ というお人だ。高齢なので、退官して、神楽かぐらおか の二本松に住んでおる。わしの添書てんしょう を持って、志を話してみるがいい」
早速がよかろうと、文覚は、すずり を寄せて、すぐ百川への紹介状を書き始めた。
麻鳥と文覚が、むずかしい話をしていると、こんどは蓬子が、ぽかんと、忘れられている形だった。彼女はややもすると、牛飼の富蔵を、魔夢のように思い出して、帰りの心配ばかり口にしていた。
「麻鳥に、送っておもらい ──」 文覚は言った。 「── わしが付いて行ってやりたいが、もし六波羅の人間に見られると、かえって、常磐どのの迷惑になろう。麻鳥、常磐御前ごぜ が身隠しの家まで、蓬さんを、送ってやらないか」
「おやすいことです」
「すみません」
蓬子はうれしそうにはず んだ。立ちどころに、不安な顔を笑靨えくぼ した。
やがて麻鳥や文覚と一緒に、外へ出た。
文覚は、もとの牛飼町のつじ で別れた。
どこから、ついて来たのか、二人の後ろ姿を、うす汚い男が、尾行つけ ていた。
壬生みぶ 村に近いさび しい道へ来て、蓬子は、気が付いたが、富蔵ではないので、べつに、気にもとめなかった。
「あの小館こやかた が、常磐さまの、身隠しのおうち ですの・・・・」 と、蓬子は立ち止まって指さした。
そして、余りに、二人きりの途中がみじかす 過ぎたような恨みを残しながら、
「ではまた、こんど・・・・ね」
小走りに別れ去って、かなたの築土ついじ の内へ、姿を隠した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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