〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/11 (土) めぐみず (五)

おや、医書ではないか。医学書の 「医心方」 だ。
文覚は麻鳥が机としている空箱の横から、また、別な本を数冊、手に取って見た。
本草ほんぞう 」 「脈経みやつきょう 」 「素問そもん 」 「薬経太素やくきょうたいそ 」 「金蘭芳きんらんほう 」 ── など、どれを引き出してみてもみな、医術の関するものばかりである。
(いよいよ、おかしな男よ、変わり者よ)
麻鳥の生家が、宮中舞楽部の楽員であることは、以前に、つぶさに聞いている。家の芸術も官位も継がずに、新院をお慕いして、御所の水守舎人みずもりとねり に身を落としただけでも、ふつうでは出来ないことと、文覚はこの変わり者を、かねてから珍重していた。
ことに、かつての日には。
官のきびしい眼や、さまざまな困難を冒して、海を渡り、配所の新院を讃岐にお訪ねしている。あの君の る方なき怨念と寂寥せきりょう をおなぐさめ申している。それなども、保身や迎合にキョトキョトしている公卿朝臣/rb>あそん の中には見たくても見られない心根だと思う。
ところが、やがて、傀儡師くぐつし の仲間入りをしたというので、それにも文覚」は、一驚させられたものであるが、今日は、その麻鳥が、日常、和漢の医書に親しんでいるのを知って、新たな驚きを、また一つ加えたわけであった。
「ふたりとも、話はすんだのか、まだか。は、は、は」
「や、これはどうも、失礼しておりました」
「麻鳥」
「はい」
「医学を研究しているのか」
「え。暇をみては、心掛けておりますが」
「じゃあ、傀儡ではなかったのか」
「いえ、いえ。医術ではまだ食べることは出来ません。食べるためには、傀儡師の仲間に交じって、笛吹きに出たり、鉦鼓しょうこ の打ち方を教えたり、なんでもしておりまする」
「ふむ。気が多いのだな」
「仰っしゃる通り、迷いが多くて、困ります」
「なぜ、朝廷に帰って、もとの伶人にならないのか」
「奈良や飛鳥あすか のような朝廷であったらと、思いますが、今のような内裏のおん有様では、亡父ちち が申しのこ しましたように、新院のお一方を君として、二度とは戻りたく思いません」
「ではゆくゆくは、医学を習得して、医師にでもなろうという気か」
「べつに、医師で身を立てようとの心ではございません。余りにも、貧しくて、無智で、生命いのち を粗末にして、よく暮すことを考えない人びとを、この辺りから近所隣に見て・・・・そうだ、文覚さんのように、僧侶そうりょ になるよりは医師になって・・・・と、発心を変えたのでございました」
「そうか。なるほど、おまえの考えそうなことだ」
文覚は、思い出した。いつか、しみじみ、彼が自分に述懐したことをである。
雨のふる日のこのあば ら屋で。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next