おや、医書ではないか。医学書の
「医心方」 だ。 文覚は麻鳥が机としている空箱の横から、また、別な本を数冊、手に取って見た。 「本草
」 「脈経 」 「素問
」 「薬経太素 」 「金蘭芳
」 ── など、どれを引き出してみてもみな、医術の関するものばかりである。 (いよいよ、おかしな男よ、変わり者よ) 麻鳥の生家が、宮中舞楽部の楽員であることは、以前に、つぶさに聞いている。家の芸術も官位も継がずに、新院をお慕いして、御所の水守舎人
に身を落としただけでも、ふつうでは出来ないことと、文覚はこの変わり者を、かねてから珍重していた。 ことに、かつての日には。 官のきびしい眼や、さまざまな困難を冒して、海を渡り、配所の新院を讃岐にお訪ねしている。あの君の遣
る方なき怨念と寂寥 をおなぐさめ申している。それなども、保身や迎合にキョトキョトしている公卿朝臣/rb>
の中には見たくても見られない心根だと思う。 ところが、やがて、傀儡師
の仲間入りをしたというので、それにも文覚」は、一驚させられたものであるが、今日は、その麻鳥が、日常、和漢の医書に親しんでいるのを知って、新たな驚きを、また一つ加えたわけであった。 「ふたりとも、話はすんだのか、まだか。は、は、は」 「や、これはどうも、失礼しておりました」 「麻鳥」 「はい」 「医学を研究しているのか」 「え。暇をみては、心掛けておりますが」 「じゃあ、傀儡ではなかったのか」 「いえ、いえ。医術ではまだ食べることは出来ません。食べるためには、傀儡師の仲間に交じって、笛吹きに出たり、鉦鼓
の打ち方を教えたり、なんでもしておりまする」 「ふむ。気が多いのだな」 「仰っしゃる通り、迷いが多くて、困ります」 「なぜ、朝廷に帰って、もとの伶人にならないのか」 「奈良や飛鳥
のような朝廷であったらと、思いますが、今のような内裏のおん有様では、亡父
が申し遺 しましたように、新院のお一方を君として、二度とは戻りたく思いません」 「ではゆくゆくは、医学を習得して、医師にでもなろうという気か」 「べつに、医師で身を立てようとの心ではございません。余りにも、貧しくて、無智で、生命
を粗末にして、よく暮すことを考えない人びとを、この辺りから近所隣に見て・・・・そうだ、文覚さんのように、僧侶
になるよりは医師になって・・・・と、発心を変えたのでございました」 「そうか。なるほど、おまえの考えそうなことだ」 文覚は、思い出した。いつか、しみじみ、彼が自分に述懐したことをである。 雨のふる日のこの茅
ら屋で。 |