〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/11 (土) めぐみず (四)

汚さ、狭さ、臭さ、牛飼町でも代表的な路地である。何を踏んでも、わんと、はえ が立つし、蠅の数ほど、子どもらがたくさん目につく。眼クソや、しらくもや、とびひや、何か腫物できもの をもっていない子はほとんどない。さんばら髪のかみさんと、昼から酔っ払っている男とが、ある一軒では、どたんばたん、屋鳴りの中で、 え合いなぐ りあっていた。
「たしか、この辺だが」
どの家も、屋根には石を置き並べ、ひさし ち、土壁は竹の骨をあらわしている。穴居の民が地表に出たというに過ぎない生態だ。── が、ただ一戸、軒端に、簾代りのむしろ を下げ、窓に竹などを植えて、ともかく、ほうき のあとを見せている入口があった。
「お、ここよ。麻鳥、いるか」
文覚は、むしろ を上げて、中をのぞいた。
ひとりの男が、窓の下に、空箱を机として、書物を読んでいた。
振り向いて、文覚と顔を見合わせると、
「あ。おいでなさいまし」 と、向き直ったが、文覚の後ろに立った蓬子よもぎこ の姿を見て、
「おや?」
と、麻鳥は、眼をまろくした。
二人は、柳ノ水の焼け跡以来、今、初めて会ったのだ。戦の焦土で知り合った仲には、忘れ難いものが多い。世間は暗く、人情は酷薄だった。その中でたまたま、たす けあい、慰めあった人の思い出は、路傍のこととはいえ、生涯の印象になっている。
「まあ、麻鳥さんは、こんな所に、住んでいたのですか」
「おう、よもぎ さんか。── 大きくなったなあ、見ちがえるほど」
「麻鳥さんだって、少し、大人おとな になったでしょ」
「そうかしら。変ったかい」
「そんなに変りもしないけれど・・・・もう、御所の水守みずもり は、おやめになってしまったの」
「いえ、死ぬまで、水守でいる心ではおりますけれど」
「そうそう、柳ノ水の御所の跡には、毎晩、あや しい人声がしたり、崇徳様のお姿が木の間に見えたりするんですってね。── あんなふうに、讃岐さぬき へ流されておしまいになったので、きっと、新院のおうら みが残っているのだろうって、市の人は恐がっています」
「蓬さんの仕えている、常磐ときわ 御前ごぜ のお家は、あのときには、焼けなかったが、こんどの合戦では、焼けたでしょう」
「え、・・・・焼けて、戦にも、追われて」
「ずいぶん、苦労をなされたろうに」
「わたくしは、それほどでもなかったけれど、常盤さまや、お小さい和子様たちが」
「いろんなうわさを、牛飼町でもしていましたよ。この町には、羽振りをきかしている巨椋おぐら の富蔵という牛飼親方もいるものだから」
「あら、あの鬼を、麻鳥さんも知っているんですか」
彼女は、富蔵ち聞くと、話だけでもすぐ、眼いろを変えた。
それはともかく、二人は、会ったとたんに、二人だけになるきって、文覚のいるのも、忘れ果てている。
文覚は、せんすべなさに、麻鳥が読みかけていた書物を手に取って、べつ者のように、ひとりでそれをめくり返していた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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