「文覚さん、文覚さんは、どっちの方へ、帰るんですか」 蓬子は、彼の法衣
の袂 を、離さなかった。恐怖にとり憑
かれた眼 が、昼の人混みを、行き暮れた曠野
のように、見まわすのである。 「ははは。そんなに恐
いのか、あの牛飼男が」 「でも、あとを尾行
られると大変です。わたくしよりも、常盤さまが」 「むむ、そなたも、麻鳥
に負けない主人思いだからな」 「麻鳥って?・・・・あの柳ノ水の水守
をしていた阿部麻鳥 さんのことですか」 「そうだ。保元の戦
のあと、常磐どのの小舘 が、あの近くにあったころ、そなたはよく、手桶
をさげて、水もらいに来ていたじゃないか」 「どうしたでしょうね、あの、麻鳥さんは」 「この町にいるよ。この町の貧しい板小屋に」 「ま。知らなかった。ほんとですか」 「去年、命がけで、四国に渡り、訪う人もない新院
(崇徳天皇) の配所をお訪ねして、やがて都へ帰ってからは、なに思うてか、傀儡師
の仲間に入って、ときどき、大道で笛吹きなどしているのだよ。妙な男だ」 「いいえ、あんな親切なお人はありません。わたくしにも、たれにも」 「あのころ、そなたは幾歳
だったろう」 「十二」 「では、十六か、いま」 「ええ十六・・・・」 と、眼もとを染めて、急に、少女のよくやる理由のない羞恥
いをもじもじ見せながら 「文覚さんは、これから、その麻鳥さんを、訪ねて行く途中なんでしょう」 「いや、今日は、衣川
の媼 の命日なので、媼のお墓へ行くところだ」 「衣川の媼って、たれですか」 「よくいちいち何か訊
きたがるの。── 衣川の媼 というのはね、袈裟ノ前のおかあさんだ」 袈裟ノ前って?」 「知らないだろう。まだ、そなたが生まれない前の人だからな。そのひとの死を追って、その母も身を投げた。そして、生きていられない身のわいが、まだこうして生きている。日々の読経や月々の墓掃
ぐらいで、深い罪が消えるものではない。わしは何かこの世にいいことをしなければすまない。・・・・ねえ、蓬
さん、わしがこの世にしなければならない使命はなんだろう」 「わかりません。なんのことだか、文覚さんの言ってることは」 「あははは、分かるまい、これや無理だった。今のは文覚の壁訴訟
よ。・・・・そうそう、こんな道くさをしているまに、ちょっと、麻鳥の家をのぞいてにようか。いるやら留守から、分からぬが」 文覚は一、二度訪ねたこともあるらしい。 |