〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/10 (金) めぐみず (一)

「よもぎさん、よもぎさん。どこへ行ったのか」
俗に、“牛飼町” で通っている六条坊門付近の牛くさい細民窟さいみんくつつじ だった。
旧暦の四月というと、この辺には走りのはえ が出始める。その四月も末である。季節に鋭いはだ は、薄暑はくしょ の汗をもう知って、人間のいろいろな分泌と牛馬のものとを一つにかも し、この町特有なにおいを持った風が往来を吹いて行く。
「あら、文覚さん」
蓬子よもぎこ は振り向いて、人混みの中のひとりを、なつかしそうに、くるりと、眼に拾った。
文覚は、そこらに落ちている牛の草鞋より汚い草履をひきずっていた。今日はおい も負わず、杖も持っていない。
「また会った。よく会うな、そなたとは」
「え、ほんとに、三度目」
「いちどは、大和の龍門から、常磐どのの後を慕って、都の方へ、泣く泣くそなた一人で歩いていた途中だったな」
「それから、月の初め、清水の子育観世音こそだてかんぜおん の花祭りの日に」
「よくよく仏縁だの。今日も、常磐どのの代参だいさん で、子育観世音へもう でた帰りか」
「ええ、、百日の御祈願ですから、まだ幾十日も通わねばなりません」
「どうして、女童めわらべ のそなたばかりに代参させて、常磐どの自身、詣らぬのか」
「だって・・・・」 と、蓬子よもぎこ は、うらめしそうに、少女の感傷を、あからさまに、── 「ご無理でしょう。そんなこと、お訊きになっても」
「そうかなあ」
「しうですとも、御門の外はおろか、お坪の先へも、お出になったことはございませんもの。── 世間を見るのもおいや。世間に見られるのもおいやなんでしょう」
「そんなことでは、今にやまい になろうも知れぬ。いのちを果てて何かせん。いつか、そなたに託したわしに便り ── 歌の消息は ── 常磐どのへお見せしたか」
「あは、あれはまだ景綱様のお屋敷にいた時分に、そっとお手渡ししておきました。── すゑ れぬかすみ の野べの道とても分けゆくままに限りこそあれ ── というお歌だったでしょ」
「そうだ、よく覚えておるな」
「いつも文机ふみづくえ の上に置いていらっしゃいますもの」
「おや。いけない。牛がたくさんつな がって来たぞ」
文覚は、彼女の小さい体を、ふわと、破れ法衣ころもそで に抱いて、路傍へ避けた。
往来のすぐ裏側は、さく で結いまわした空地だった。こういうまき が、大小幾つとなくこの町にはあって、牛や馬を放してある。
都人の交通から運輸まで、すべてが牛馬の力に っていた。そこで、牛飼や博労ばくろう だけで、ひと町をなすほどな需供がここで営まれた。格家の廃馬や廃牛を引き取り、代わりの牛だの馬などを納める商売人のほか、牛車を造る車工匠くるまだくみ も、たくさん住み、牛市の立つ日には、博奕場ばくちば も盛り、人寄せ、物売りなどもにぎわった。
今日は、その市の日でもあろうか。
さっきも通ったが、まだ幾頭もの牛が、数珠つなぎに、負われて来た。
「あっ。こわ い・・・・」
ゆたり、ゆたり、飴牛あめうし や、まだらが、眼の前にかかると、蓬子は急に、文覚の体につかまって、彼の大きな背の蔭へ、身を隠した。
ムチで牛を追い追い、牛に付いていた田舎人いなかびと らしい男は、じろっと、その蓬子を見、文覚を見、見比べるように、また、振り向いては、通って行った。
「たれだ。今のは」
「常盤さまの伯父さまです。巨椋おぐらまき の・・・・」
「おう、あの悪蔵あくぞう か、わが姪と、その幼子おさなご 三人を、褒美ほうび の金ほしさに、六波羅へ売り込んだのは、の男よな」
「鬼みたいな心の人。あの眼を見ただけで、ぞくとしました。あの人はわたくしを見たでしょうか。ああ、みつかったら、どうしよう」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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