「よもぎさん、よもぎさん。どこへ行ったのか」 俗に、“牛飼町”
で通っている六条坊門付近の牛くさい細民窟
の辻 だった。 旧暦の四月というと、この辺には走りの蠅
が出始める。その四月も末である。季節に鋭い肌
は、薄暑 の汗をもう知って、人間のいろいろな分泌と牛馬のものとを一つに醸
し、この町特有なにおいを持った風が往来を吹いて行く。 「あら、文覚さん」 蓬子
は振り向いて、人混みの中のひとりを、なつかしそうに、くるりと、眼に拾った。 文覚は、そこらに落ちている牛の草鞋より汚い草履をひきずっていた。今日は笈
も負わず、杖も持っていない。 「また会った。よく会うな、そなたとは」 「え、ほんとに、三度目」 「いちどは、大和の龍門から、常磐どのの後を慕って、都の方へ、泣く泣くそなた一人で歩いていた途中だったな」 「それから、月の初め、清水の子育観世音
の花祭りの日に」 「よくよく仏縁だの。今日も、常磐どのの代参
で、子育観世音へ詣 でた帰りか」 「ええ、、百日の御祈願ですから、まだ幾十日も通わねばなりません」 「どうして、女童
のそなたばかりに代参させて、常磐どの自身、詣らぬのか」 「だって・・・・」 と、蓬子
は、うらめしそうに、少女の感傷を、あからさまに、── 「ご無理でしょう。そんなこと、お訊きになっても」 「そうかなあ」 「しうですとも、御門の外はおろか、お坪の先へも、お出になったことはございませんもの。──
世間を見るのもおいや。世間に見られるのもおいやなんでしょう」 「そんなことでは、今に病
になろうも知れぬ。いのちを果てて何かせん。いつか、そなたに託したわしに便り ── 歌の消息は ── 常磐どのへお見せしたか」 「あは、あれはまだ景綱様のお屋敷にいた時分に、そっとお手渡ししておきました。──
末 知
れぬ霞 の野べの道とても分けゆくままに限りこそあれ
── というお歌だったでしょ」 「そうだ、よく覚えておるな」 「いつも文机
の上に置いていらっしゃいますもの」 「おや。いけない。牛がたくさん繋
がって来たぞ」 文覚は、彼女の小さい体を、ふわと、破れ法衣
の袖 に抱いて、路傍へ避けた。 往来のすぐ裏側は、柵
で結いまわした空地だった。こういう牧
が、大小幾つとなくこの町にはあって、牛や馬を放してある。 都人の交通から運輸まで、すべてが牛馬の力に拠
っていた。そこで、牛飼や博労
だけで、ひと町をなすほどな需供がここで営まれた。格家の廃馬や廃牛を引き取り、代わりの牛だの馬などを納める商売人のほか、牛車を造る車工匠
も、たくさん住み、牛市の立つ日には、博奕場
も盛り、人寄せ、物売りなどもにぎわった。 今日は、その市の日でもあろうか。 さっきも通ったが、まだ幾頭もの牛が、数珠つなぎに、負われて来た。 「あっ。恐
い・・・・」 ゆたり、ゆたり、飴牛
や、まだらが、眼の前にかかると、蓬子は急に、文覚の体につかまって、彼の大きな背の蔭へ、身を隠した。 ムチで牛を追い追い、牛に付いていた田舎人
らしい男は、じろっと、その蓬子を見、文覚を見、見比べるように、また、振り向いては、通って行った。 「たれだ。今のは」 「常盤さまの伯父さまです。巨椋
の牧 の・・・・」 「おう、あの悪蔵
か、わが姪と、その幼子 三人を、褒美
の金ほしさに、六波羅へ売り込んだのは、の男よな」 「鬼みたいな心の人。あの眼を見ただけで、ぞくとしました。あの人はわたくしを見たでしょうか。ああ、みつかったら、どうしよう」 |