十数日の後。 さしもの悪源太も、ついには、難波次郎の手勢に捕われた。 場所は、逢坂山
に近い関ノ明神の神前、不敵にも、愛刀石切
を抱いて、昼寝したいたのを、告げた者があって、まるで猪狩
りのように、追い詰められたものだった。 しかし、それとて、やすやすと、縄目
にかかったわけではない。石切の太刀をふるい、大勢を切ってなわり、難波次郎に迫って、彼の右の肱
に、一太刀かすめたほどだったとある。 なお、六波羅にひかれても、 「戦
には敗れたが、鎌倉の悪源太義平は、地べたや、素むしろにすえられて、頭
を垂れる者ではない。休息には、侍所を与えよ」 と吠
えて、礼を執らない以上、頑 として、清盛の前へ足を運ばなかったという。 さらに、清盛の前でも、 「去年の合戦に先だち、右衛門督信頼卿が、もし、わたくしのすすめを容
れて、御辺 が熊野路から引っ返す途中を、あの時、手兵三千ほどで、迎え撃つ策が実現されていたら、御辺と、わたくしの父義朝とは、今日まさに、逆な運命になっていたろうと思います」 と、いい澄ました。 いや、次の一語は、もっと痛烈であった。 「・・・・けれど、かりに、わたくしの父義朝が、今日の勝者となっても、おそらく、あなたの愛する女性などを、横奪
りにはしなかったでしょう」 侍座
の六波羅武者たちは、義平の終わりの一言に、みな、清盛の激怒を予想して、はっと顔色を失い、乾いた唇
をむすび会った。 しかし、清盛のひとみは、じつに静かなものを沈めていた。 どうしたのか、この若者に対し、彼には憎しみが持てないらしかった。兼帯門の雪の日の思い、勝敗は、一歩の運命の微差でしかなかったのにと思い、また、自分も子を持つ親として、しきりに、子の重盛と眼の前に彼とを、思い比べたりしているふうであった。 夕方、その義平へは、特に、侍所
の内で、酒や食事が与えられた。そしてその宵、六条河原につれ出して、斬らせた。 あとで、番の侍たちのうわさでは、義平は、せっかくの土器
にも、飯の椀 にも、手を触れていなかったとある。いぶかしいことと、人びとが死骸
を検 めてみたところ、関ノ明神前で行き倒れたはずである。幾日も食べていなかったとみえ、その胃袋は空っぽで、あわれ、二十歳
の肉体も、腹に小皺 がよっていたという。 |