〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/10 (金) いし きり じん せい (二)

六波羅の兵である。その数、三百ほど、指揮は、難波次郎経遠であった。
朱鼻あけはな の密訴によることはいうまでもない。
しかし、ここには、朱鼻は見えない。代人の鹿七が、難波次郎のそばにいた。抜け道の案内やら、目ざす門口を、指さしたりしていた。
「はいれっ。── 戸を突き破れ」
武者声と、物音は、裏も表もなく、いちに、小さい家を みつぶした。
「地震 ──」 と叫び、 「火事っ」 と、うろたえなから、近所はいちどに眼をさました。たとえようもない屋鳴りやら何かの裂ける音に、人びとは震え上がった。
「捕えた。からめた」
という声はたしかにあった。
しかし、それは志内しない 六郎だけのことと、一瞬の後にはすぐ分かり、悪源太はと、騒ぎあう声が大きく拡がった。
かれは、寝込みを襲われて、いちどは、まったく包囲されたが、雪隠せっちんかこ いを蹴破けやぶ って、おどり出し、かき をとび越えて、隣家の屋根へ上っていた。
「やっ。あれにいる!」
難波次郎は、はっきり、眼で見た。
「弓を」
といって、不用意に気がついた。
路地の小家だし、悪源太ひとりとお思って、わざと弓は持たなかったのである。
「あれ、あれ、。また んだぞ。屋根から屋根を」
いたずらに、兵と兵は、ぶつかり合い、ただ大げさな右往左往が、ののしり騒ぐだけだった。
無数の殺傷を、討手に与えて、悪源太は逃げおおせてしまった。
のあたりに目撃した人びとは、鬼神のようであったといい、
「あれでは、待賢門の戦いに、小松殿 (重盛) が、馬のしりを打って逃げたのもむりではない」
と、その日は、この騒動のうわさで、もちきった。
金王丸も、同時刻に、討手の勢に襲われたが、これもまた、血路を開いて、姿をくらました。
逮捕されたのは、志内六郎や馬具師の主や、とにかく、匿った側の人々だけである。しかし、追捕の厳命は、洛内の辻固つじがた めとなり、諸方の街道口には関所が構えられて、往来一人一人を、しらみつぶしにあらた めるというきびしさだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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