〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/10 (金) いし きり じん せい (一)

黙々と、三人は歩いた。文覚もんがく のことばが、頭から去らない。
「かほどな初一念しょいちねん を、彼の説破に、たちまち、ぐらつかせるなどとは」
と、悪源太は、途中から、思い直した。自分を叱咤しった して、反駁はんぱく をこころみていた。文覚の、余りにばく として、非現実的な論にたいしてである。
だが、どうしても、否定できない一つのものがあった。人事も万象も、地上は間断なく推移し変化しているということだ。
「それだけは確かだ、疑う余地がない。こうして歩いて帰るうちにも、星はふえ、夜は濃くなって来ている。── 金王こんのう 、わぬしは、どう聞いたぞ。そして、どうはら をすえたか」
金王丸は、ふと、魔につかれた頭を、振り解くように、しきりと、顔を振った。
「わたくしの考えは、変りません。ひょっと、感服はしましたが、あれは仏教の常套語じょうとうご でしょう。わたくしは、さむらいです。坂東武者ばんどうむしゃ の一子、亡き左馬頭義朝どのに育てられた人間、何条なんじょう一僧侶いちそうりょ のことばに志を変じてよいものでしょうか」
「そうだ。おたがいは、生まれたときから武門の子だった」
「部門において、恥なかれです。文覚のいうような、宇宙や流転るてん はどうあるか知りませんが、いずれにせよ、短い命、名をこそ惜しめです」
「よく言った。武者が命をいつく しむのと、武者ならぬ者が命をいつく しむのとは、おのずから、愛し方がちがう」
悪源太は、うそぶ くように、星を仰いだ。
ふと見失いかけた自分を取り戻したように、まゆ を風に吹かせて、
「では、金王、分かれよう」
と、快活に言った。
職人町のつじ である。金王丸も、もう迷いのない顔で、
「おやす みなされませ」
と、たもと を分かったが、また小戻りして、こうたずねた。
「明朝は、どうなさいますか」
「え。明朝とは」
「文覚へ、またたず ねようと、仰っしゃたようですが」
「やめよう。一たん、鬼ともなれと、大望をいだいた者が、今さら、僧侶の許へ、聴聞参ちょうもんまい りでもなかろう。── それよりは、六波羅のすきをこそ、清盛の首をこそだ」
「なお、常磐どのも、あのままにはおけません。きっと、その方は、わたくしがいたします。・・・・では、、後日また」
金王丸は、そこから近い馬具師に家へ。
悪源太と六郎は、そっと、雑色町の家へもどった。
おそ夕餉ゆうげ の支度にかかり、貧しい割り松を、とも しに いて、二人は夜食をとった。
それから一刻ほど、一人は読書し、一人は水屋で物音をさせていたが、ほどなく、妻戸をとじて、寝しずまった。
そして夜も四更しこう を過ぎ、明け方近い霧が、びっしょり、小さな家々の破れびさし を濡らしていたころ、もくもくと、灰色の気流のように、ここの路地、あちこちの横丁に、人影が揺らぎ始めた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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