ぞっと、身の毛がよだった。 悪源太も金王丸も、しまったという食いに、顔色が変わった。
「聞かれた」 と思い、また咄嗟
に、殺意を胸に動かしたのかも知れない。 坊主は、動物的な勘
で、すぐ自分への反射を読み取っているように、 「わしは、知らんよ。今のは、鴉だよ。・・・・若人
たち、胆 をつぶすことはない」 と、上から言った。 しかし、彼が全てを聞いたことは、間違いはない。切妻
の破風 の蔭に背をもたせかけて、ぺたんと座っていたのである。鴉でさえちょっと気づかないほど、立ちも動きもせずにいたことが、充分、それを実証している。
悪源太は、強 いて、苦笑しながら、さし招いた。 「おい、坊さま。ちょっと、たずねたいことがあるのだが、降りてくれぬか」 「わしは、屋根に用があればこそ、屋根に上っているんだよ。訊
きたいことがあるなら、下から訊け、話しは、届く」 「そんな所に、御坊は、何をしているのか」 「わからぬか、屋根の修繕
いをしているのが」 「あ、なるほど、屋根の破れを葺
き足しておるのか」 「ここを仮の宿としている風来僧
だが、雨が降ると、御堂の中まで池になる。いま見たような悪戯鴉
が、朽ち屋根を突っつき散らしてしまうせいだろう。今日は天気も良いのでな。アハハハ、朝から屋根のつくろいよ。・・・・ときに、和殿
たちこそ、そこで何してござったな」 「・・・・」 「まあよい、問うまい。だが、ゆくりなく、こうお目のかかるも宿縁ゆえ、これだけは申しておこうか。見るかげもない乞食僧
の大言と軽んじ召されまいぞ。お身方は、何しろ若い、余りに青くそうて、そぞろ憫
れに存ずる。もそっと、いのち大事に、御成人を心掛けられい」 「そういう御坊は、われらを、たれと見ての仰せか} 「知らん。そんなことは」 「いや、聞いたにちがいない。われらの話しを」 「聞かれて悪い話しであったのか。はてさて、不用意な。聞いた者が、鴉にひとしい野僧でよかった」 「何しろ降りろ。大事を耳にしたのが、御坊の災難だ。不憫
ながら生かしてはおけぬ」 「はははは」 と、坊主は、愉快そうに笑った。嘲笑
でもなく、威を誇るのでもない。眼をほそめて、愛すべき地上の稚気を、あやすように言うのである。 「それ、生地
が出たな、生地 が。── 平治の合戦の日、待賢問から堀川まで、清盛のせがれ重盛を追いまくした豪勇の御曹司でも、世が変わり、その心の拠
り場 も失うては、よく屋根上の一羽の鴉をすら捕えることはできまい」 「よしっ、降りねば、上って行くぞ」 「来てもよいが、無用な骨折りだ。和殿たちは密談というが、こちらの耳は、鴉も同様、聞いたからとて、六波羅へ告げるおそれは誓ってない。むしろ、野僧の心は、敗れた者へ、一片の同情をもつ。・・・・それは僧衣の下の本心だ。なればこそ、なお長い生涯をもつ若人
を見るといいたくなる。父や兄も死に絶え、一族も離散しつくしたうえに、またこの後を追うてなぜ、さは命を粗略にし給うか。未来、万種の胚子
にもなる尊い一身をみずから愛し給わぬのか。ばかな思い立ちは止められい。一将を射たとて、一挙に、時運の挽回
がなるべきかは。おろか。・・・・ 和殿たちの青くさい思慮にくらべれば、あわれ、世の毀誉
褒貶 のなかに、甘んじて女性の苦患
を苦患としてうけ、遺孤三人の成長を心の奥に見守ろうとする弱い弱い一女性ほうが、じつはどれほど強いかしれぬ」 「・・・・・・」 下には、声がなかった。 木の根に腰かけた三つの人影は、ヒザをかかえて、考え込んでいた。もう木もれ陽
は、夕方めいて、悪源太の横顔や金王丸の頸
に、赤い隈 を染めていた。 「見たがいい。こうしている間にも、日輪は移り巡っている。変るなと祈っても、刻々に、変ってゆく天地。そのままが人間の春秋、この世の流相
だ。勝敗興亡、ひとつとして、その循環の外ではない。勝は、敗れの初め、勝ったところで、安んずる理由はない。栄々盛々などは人間にも地上の万象にもないことだ。和殿たちにも、いつまでも枯々衰々はありえない。ただ人命限りあり、老人の気みじかは分からぬでも直。しかし、、いのち豊な和殿らが、なにを、あわてるのか。けちな鬱
を一ときはらそうとして、あたら一命を散り急ぐやら?」 「・・・・・」 「ああ、夕鴉の声だ。和殿らも、ねぐらへ帰られい。ならば都の外遠くまで去るべしだ。わしもそろそろ屋根を降りよう」 屋根上の僧は、立った。 ──
と、何かに、ひかれるように、地上の影も、ともに、立っていた。 「あっ、お待ち下さい」 悪源太は、堂の角棟
の下へ走った。 「おことば、なにか、胸にこたえました。一夜、とくと考えます。・・・・が、御坊のおん名を聞かせてください。明朝、ふたたびここへ来て、お教えをうけたいと思いますゆえ」 「いや、ゆるし給え。名を言うのは、恥ずかしい者だ」 「ただ人
ではおわしますまい。もしや、源氏に有縁
のお方ではございませぬか」 「源氏とも無縁、平家にも無縁。見らるる通りな一野僧にすぎぬ。明朝、またお目にかかろう」 「でも、せめて、おん名を」 「いや、さんざん、聖
めかした説法をいうたので、名を告げるのも気恥かしゅうなった。和殿たちを、青くさいの、なんのとくさしたが、この身が、和殿ごろの年齢には、いやもう、はなしにもならぬ大たわけでおざった。もっともっとおろかしき煩悩
の犬でおざった。人妻の見さかいもなく、火のような恋をし、都じゅうの笑いぐさとなり、いっそ死ぬしかと、那智の滝へ身を当てたほどな業
の深い者でおざる」 「あっ、では・・・・」 義平は、思い当たった。金王丸も六郎も、一緒に、口走った。 「文覚
どのだ」 そして、身伸びをしたが、ふと、見当たらなくなったので、遠くへ離れて、屋根のあちこちをながめ上げた。 文覚は、どこから降りたものか、見えなかった。 切妻の上に、ほんとの鴉が一羽、つばさの下に、首を突っ込んだり、夕星を見たりしていた。
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