〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/08 (水) か ら す 説 法 (一)

「六郎、家の前にいま、いやな つきの男が、うろついていたが、あれは近所の者か」
そこの路地を出るとすぐ悪源太あくげんた は、連れの志内しない 六郎にささやいた。
「いや、なかなか雑色町にいるような貧乏人とも思えません。五条の市か六条坊門あたりの、店屋てんやあるじ でもありましょうか」
「そんなふうに見たか」
「ぜいたくな衣服です。それに人体にんてい も」
「面構えといい、見事にあか い鼻だった。ひとくせ ありげなやつ。気をつけろよ」
「はい、心得ています。── べつに、尾行つけ て来るような様子も見えませんが」
六郎は、何度も、後ろを見た。
たしかに、鼻の朱い男は、もうあとに見えない。けれどその朱鼻あけはな の合図を受けて、手代の鹿七が、七条の原から、通行人のような足どりで来るのには、二人とも、つい注意を欠いていた。
二人は、ぬかるみや水たまりを避けながら、ごみごみした職人町を曲がって行く。
鍛冶かじ革師かわし 、弓師、染師、馬具師などの小屋が、春もそよに、日ねもすつち の音や煤煙ばいえん の中に、荒壁を隣り合わせて、一生をすりへらしている。
それらの工業や工芸にたずさわる諸職でも、しかるべき工匠たくみ たちは、洛内らくない に門戸を張って、みな相当に暮しているが、この辺の小屋は、ほとんどが、下請したう け職の程度で、かせ いでも稼いでも足らないというのが口癖な人びとばかりだった。
「なあ六郎、こう見てゆくと、この辺の諸職は、合戦の前よりも、ずんと、忙しそうではないか」
「そうです。六波羅景気とか申し、夜業よなべ にまで、つち やふいごの音をさせております」
「みな平家の需要だろうな」
「されば、源氏のつい えた今日では・・・・」
悪源太は、急にそこらの軒ばを、いまいましげな眼でながめた。こんなことにも、父や兄がいたらと思う。そして、時粧風物、すべてが一変して、源氏と名のつくものは地を払ってしまった都のさま に、彼は空漠くうばく たる痛恨を 「今日」 に抱くのだった。
一時、都では、悪源太義平も捕われて刑死したろ信じられていた。
それは、何かの誤伝で、事実は、つい先ごろまで、越前の国足羽あすわ に隠れていたのである。
姿をやつ して、その後、都へまぎ れ出たが、もう昔日せきじつ の都ではない。彼は、見るもの聞くものに、絶望した。
人びとは、戦後の六波羅景気を迎え、六波羅政令に服従しきり、時粧の流行にまで、六波羅風なるものが興っている。
公卿諸官吏はいわずもがな、一般の商戸や諸職でも、六波羅に縁引きを持たなければ、官にもつけない、よい利益もないというのが常識になるかけている。平家衆の羽振りは、末輩までが、旭日の勢いに見える。妓舘に遊んでも、寺院へまい っても、市で買物をしてさえ、
(六波羅どのの御内みうち ──)
とさえ言えば、下へも置かれず、あいそを言われた。おくびにも、今では、源氏を口にする者はない。
(こうも変るものか。人の心も、世のさま も)
悪源太は、腹が立った。余りに現金な人心と現実主義な世風を、白眼視せずにいられない。
若い、まだ二十歳はたち でしかない彼。
こんな大きな世の変化には、生まれて初めて接したのである。
変りやすい世を見ながら、目前の現象は、もう永久に、不変のものかの如く彼には見えた。── 現実というものは、じつは寸秒の休止もなく、刻々に変ってゆく空間の一駒にすぎない ── とする易学的えきがくてき な考え方などは、もとより、彼の若さは持ち合わせていない。
「くそおもしろくない世の中だ。このうえ、世の中に、ひとり生きても何かせん」
現実に圧倒され、現実の固着から けきれない若い憂鬱ゆううつ は、当然、生命のあがきを、自暴的にした。青春の夢に代って、彼が抱いた悲願は、平家への生きる限りの反抗だった。なんとか、清盛に近づいて、源氏のうらみを晴らそうとする一念となった。
そのうち、志内しない 六郎と行き会ったのである。
六郎は、もと義朝の子飼いのはし下部しもべ で、戦後、平家へ投降した大量な雑兵に交じって、六波羅の厩雑色うまやぞうしき にはいっていた。
旧主の子、悪源太のうらぶれた姿に、六郎は涙して、貧しいわが家へ連れて行き、
「ここに潜んで、時をお待ちなされ。てまえが、機会をうかがいますから」
と、かく っていた。
そして先ごろ来、清盛がしばしば、常磐ときわ 御前ごぜ の許へ通うのを探りえた結果、悪源太は、清盛の牛車へ近づき、車のれん へ手までかけたのであった。しかし相手を刺すには至らなかった。
「無念、無念」
その夜は姿をくらまし、彼は、夜が明けてから六郎の家へ帰っていた。失敗は失敗であったが、その一度の経験で、 「清盛に近づくことは、さして難事ではない」 という自信を、それ以後、彼はなお強くした。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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