「六郎、家の前にいま、いやな眼
つきの男が、うろついていたが、あれは近所の者か」 そこの路地を出るとすぐ悪源太
は、連れの志内 六郎にささやいた。 「いや、なかなか雑色町にいるような貧乏人とも思えません。五条の市か六条坊門あたりの、店屋
の主 でもありましょうか」 「そんなふうに見たか」 「ぜいたくな衣服です。それに人体
も」 「面構えといい、見事に朱
い鼻だった。ひと癖 ありげなやつ。気をつけろよ」 「はい、心得ています。──
べつに、尾行 て来るような様子も見えませんが」 六郎は、何度も、後ろを見た。 たしかに、鼻の朱い男は、もうあとに見えない。けれどその朱鼻
の合図を受けて、手代の鹿七が、七条の原から、通行人のような足どりで来るのには、二人とも、つい注意を欠いていた。 二人は、ぬかるみや水たまりを避けながら、ごみごみした職人町を曲がって行く。 鍛冶
、革師 、弓師、染師、馬具師などの小屋が、春もそよに、日ねもす鎚
の音や煤煙 の中に、荒壁を隣り合わせて、一生をすりへらしている。 それらの工業や工芸にたずさわる諸職でも、しかるべき工匠
たちは、洛内 に門戸を張って、みな相当に暮しているが、この辺の小屋は、ほとんどが、下請
け職の程度で、稼 いでも稼いでも足らないというのが口癖な人びとばかりだった。 「なあ六郎、こう見てゆくと、この辺の諸職は、合戦の前よりも、ずんと、忙しそうではないか」 「そうです。六波羅景気とか申し、夜業
にまで、鎚 やふいごの音をさせております」 「みな平家の需要だろうな」 「されば、源氏の潰
えた今日では・・・・」 悪源太は、急にそこらの軒ばを、いまいましげな眼でながめた。こんなことにも、父や兄がいたらと思う。そして、時粧風物、すべてが一変して、源氏と名のつくものは地を払ってしまった都の様
に、彼は空漠 たる痛恨を 「今日」
に抱くのだった。 一時、都では、悪源太義平も捕われて刑死したろ信じられていた。 それは、何かの誤伝で、事実は、つい先ごろまで、越前の国足羽
に隠れていたのである。 姿を窶
して、その後、都へ紛 れ出たが、もう昔日
の都ではない。彼は、見るもの聞くものに、絶望した。 人びとは、戦後の六波羅景気を迎え、六波羅政令に服従しきり、時粧の流行にまで、六波羅風なるものが興っている。 公卿諸官吏はいわずもがな、一般の商戸や諸職でも、六波羅に縁引きを持たなければ、官にもつけない、よい利益もないというのが常識になるかけている。平家衆の羽振りは、末輩までが、旭日の勢いに見える。妓舘に遊んでも、寺院へ詣
っても、市で買物をしてさえ、 (六波羅どのの御内
──) とさえ言えば、下へも置かれず、あいそを言われた。おくびにも、今では、源氏を口にする者はない。 (こうも変るものか。人の心も、世の様
も) 悪源太は、腹が立った。余りに現金な人心と現実主義な世風を、白眼視せずにいられない。 若い、まだ二十歳
でしかない彼。 こんな大きな世の変化には、生まれて初めて接したのである。 変りやすい世を見ながら、目前の現象は、もう永久に、不変のものかの如く彼には見えた。──
現実というものは、じつは寸秒の休止もなく、刻々に変ってゆく空間の一駒にすぎない ── とする易学的
な考え方などは、もとより、彼の若さは持ち合わせていない。 「くそおもしろくない世の中だ。このうえ、世の中に、ひとり生きても何かせん」 現実に圧倒され、現実の固着から脱
けきれない若い憂鬱 は、当然、生命のあがきを、自暴的にした。青春の夢に代って、彼が抱いた悲願は、平家への生きる限りの反抗だった。なんとか、清盛に近づいて、源氏のうらみを晴らそうとする一念となった。 そのうち、志内
六郎と行き会ったのである。 六郎は、もと義朝の子飼いの走
り下部 で、戦後、平家へ投降した大量な雑兵に交じって、六波羅の厩雑色
にはいっていた。 旧主の子、悪源太のうらぶれた姿に、六郎は涙して、貧しいわが家へ連れて行き、 「ここに潜んで、時をお待ちなされ。てまえが、機会をうかがいますから」 と、匿
っていた。 そして先ごろ来、清盛がしばしば、常磐
御前 の許へ通うのを探りえた結果、悪源太は、清盛の牛車へ近づき、車の簾
へ手までかけたのであった。しかし相手を刺すには至らなかった。 「無念、無念」 その夜は姿をくらまし、彼は、夜が明けてから六郎の家へ帰っていた。失敗は失敗であったが、その一度の経験で、
「清盛に近づくことは、さして難事ではない」 という自信を、それ以後、彼はなお強くした。 |