〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/08 (水) しゅん   えん (二)

常磐は、今も義朝を忘れていない。また、ここの窓から、鞍馬くらま をながめ、醍醐だいご の空を見、子たちの身の上を、忘れることもなかった。雨につけ風につけ、この家の朝夕が、物に豊であることが、かえって、つら い思いになった。
「どうか、和子たちの、生い育ちを、守らせ給え」
と、朝にも、夕にも、厨子棚ずしだな如意輪観世音にょいりんかんぜおん に向かって、祈らない日もないのである。
その小さな如意輪観世音の銀像は、義朝がまだ世にいたころ ── 「そなたの守り本尊にあがめただよい」 と、彼女へ与えたものだった。
常磐が、それへ を合わせる時は、子たちの、ゆく末を念じながらも、その銀像を通して、 りし日の義朝の面影やら、やさしい言葉までが、しの ばれてくるのであった。
また、一日中での、楽しい一ときも、そこにすわっている間にあった。
なちがいはない。これはたしかである。彼女自身が、たれよりも知っている。
けれど、
彼女は、自分をかえりみて、おりおり、ひとり心のうちで、怪しみもした。その恥じらいに、たれもいない泉殿の窓で、からだじゅうを熱くし、ひとりして顔を染めてしまうことすらある。
なぜか、彼女は、人が待たれてならない。
ここは神泉苑の森のはずれで、壬生村みぶむら の螢小路とはいうが、めったに、牛車や人も通らない都の中の田舎であった。人恋しい思いの彼女は耳ざとくなって、ふと、車の輪の音がしても、
「・・・・もしや」
と、胸が鳴るのであった。
「自分は、あさましい女なのであろうか」
夜のねや に、ひとり、問いつつ、もだえつ、することもある。
女体という熱い白磁はくじうつわ は、ふしぎな血のみちているつぼ である。その中には、極めて、矛盾していて、また極めて自然に、いく色もの心がひとつに んでいる。そして、どれが、本性の血か、自分でないものの血か、わからない。
いや、自分でないものが、自分の中に り得ようはずはない。うずく肉、もだえる想念、すべて自分自体にちがいない。── と考えては、身の浅ましさに、サメザメと、春の夜半をひとり泣く彼女であった。その涙恨るいこん には、子への思いや義朝へ詫びもしながら、また、ふしぎなほど体が待つ、清盛へのえん な恨みもともに、まくら をひたすのであった。
女の二十三という肉体は、春ならば今ごろの季節にもあたるのであろう。義朝とは、熱い恋をし、子まで しても、なお彼女の体は、早春のさわらびか、つぼみのかたい花だったに違いない。ようやく、いや突として、彼女自身すらおどろき怪しんだ女の体の春のあけぼの が、意地悪く。いま、義朝ならぬ男によって、訪れられているのではあるまいか。
「罪深い女性にょしょう の身よ」
と、彼女は、自分を泣いた。彼女ばかりでなく、平安朝の女、以後の世代の女性も、こういう想いに、黒白あやめ もなく、ただ泣いたのである。
そして、その反省に、かしこ む女性は、法華経ほけきょう の写経に、浄化されようと努めたり、また早くに、髪を切って、尼すがたになったりした。また、解決の途を、肉体の答えに従って、奔放になってゆく女性は、極端な自由を恋愛に きただらし、遊女となり、くぐつにまで落ち、路傍に、卒塔婆そとば 小町こまち のような姿をさらして、肋骨あばら を犬やからす に食わせてしまう女もあった。
常磐は、そのどっちへも、自分をもって行けそうもない気がした。彼女の悲願は、こうなってもまだ、母でありたいことでしかない。どう、そうした想念や れた肉体が狂気しても、いちど心と肉体を合わせて造化された根底の母性だけは、揺るぎも せもしなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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