〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (三) ──
常 盤 木 の巻

2013/05/07 (火) しゅん   えん (一)

神泉苑 しんせんえん の西に、むかし、さる大臣 おとどいと しい人をかくしていたという人目だたぬ住居がある。
幸いに、そこが空いていたので、五条の朱鼻は、店の手代をやって、
「主の別宅にしたいから」
といって、買い取らせた。
六波羅の御台盤所 みだいばんどころ から勘当かんどう をうけて、すぐその翌々日のことである。そしてもうその晩のうちに、家移やうつ りが行われていた。
なにしろ、五条の店に、人手はいくらでもある。牛車、手車などで、夜のもの から、水屋道具、調度の品々しなじな まで、運び込まれた。
鼻は、昼間から、庭師の真似をしたり、掃除したり、さて夜には、几帳きちょう壁代かべしろ から、厨子棚ずしだな や文机まで、母屋もや の一室にかざりたてて、
「やれやれ、あわてふためいたわえ。だが、落ち着いてみると、悪くない。これならお気に召すだろう」
と、真新しい切燈台の灯かげまで、楽しむように、ひとりえつ に入っていた。
神泉苑の森蔭に、乗用の牛車や供人を遠くおいて、さっそくこの新居へ、訪れて来た貴人がある。
「やあ、なかなか、静かではないか、庭も い。小さいながら、泉殿もある」
庭を通りながら、客は、あちこち見まわしていた。いや客ではなく、じつは、ここの家をも持つことになる清盛であった。
「殿、いかがでしょう」
「でかしおった。よくこう早く、調ととの ったな」
「その御一言で、鼻は、満足いたしました。── 御台盤所さまには、御勘気ごかんき を受け、殿からは、人知れず急げとばかり御命ぎょめい を受け、いやもう、ここ二日二晩は、ろくに眠りもいたしませんでしたが」
「まず、よいわ。そして常磐の身は」
「夜更けて、街も寝静まるころ、そっと、景綱様のお屋敷から、ここへお移し申し上げるつもりです」
「そうか。・・・・それを聞いて安心した。では、何かと、世間のつくろい、日々の暮らしむきなど、世話をたのむ」
「もう御帰館で」
「ここしばらくは、奥方おく がな・・・・」
自嘲じちょう して、しかし、楽しそうに、清盛はあっさり帰った。
けれど、その後も、清盛の姿が、ここの静かな門を訪うことは、まだなかった。時子の疑いが容易に解けて来ないのであろう。そして、参内の帰路を心がけても、めったに、内裏から気楽に帰る日もないものと思われる。
鼻は、朝に見え、夕に見えて、
「御不自由はありませんか」
と、親切のかぎりを運んだ。そして、
「常磐さま、六波羅の君は、一度も、お見えになりませんか。はてさて、じょう のうすい」
と、彼女の言いたいうら みまで代って言ったりして、ここの無聊ぶりょうさび しさをにぎ わしては帰った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next